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「……無駄じゃ、なかった」


ティナの唇が、血に濡れながらも小さく弧を描いた。


ソフィアに「無駄」と切り捨てられた、あの肥大した筋肉。

コウタに「甘え」と罵倒された、あの煮物への涙。

そして、何一つ自分で決められず、誰かの正解を欲しがって震えていた、あの惨めなニートの自分。


(……全部、私だ)


もしもあの絶望がなければ、この筋肉はここまで硬くならなかった。

もしもあの煮物の温かさを知らなければ、この地獄に立ち続ける理由は見つからなかった。

「ダメな自分」を否定するために積み上げた、すべての泥臭い時間が、今、ティナの拳に絶対的な質量を与えている。


「無駄なことなんて、何一つ……なかったんです。ソフィアさん」


ティナは、自らの身体を覆うd-tubeのセンサーなど目に入っていないかのように、一歩、踏み出した。

その足音は、リングを、アリーナを、そして見守る世界を震わせるほど重い。


「……私を作ったのは、あなたの言う『効率』じゃない。……この、汚くて、重たくて、どうしようもない……私の全部なんです」


かつてセンサーを引き剥がして暗闇で構えた、あの夜の続き。

今、ティナの肉体は、コウタの「地獄」とソフィアの「科学」を飲み込み、自分自身の魂で再起動していた。


「……来なさい」


場外から戻ったソフィアが、低く構える。

彼女の瞳には、もはやティナを「資材」と見なす傲慢さはない。

そこにあるのは、自分という「正解」を脅かす、未知の怪物への戦慄と、剥き出しの殺意。


「……行きます。今の私が、……私の全部です!」


ティナの咆哮が、アリーナの空気を爆ぜさせた。

正解も不正解もない。

ただ、一人の少女が、自分という存在のすべてを賭けて、究極の「合理」へと拳を叩きつける。



「……いいわ。なら、その全部ごと叩き潰してあげる」


ソフィアの体が、弾丸となってリングへ舞い戻った。

その動きは、かつての優雅な『エデン』の調整エディットではない。

倉庫の闇で、ただ「勝つ」ためだけに、コンクリートや鉄筋を相手に磨き上げた、汚く、鋭い実戦の理。


ソフィアの指先が、目潰しの軌道でティナの視界を掠める。

怯んだ刹那、金的を狙う低い蹴りと、喉笛を突く手刀が、同時に放たれた。

合理的格闘技が捨て去った「禁じ手」の数々。

それが、倉庫で純化した彼女の「合理的な殺意」となって襲いかかる。


「が、ぁ……っ!!」


急所を狙う容赦のない衝撃。

だが、ティナは止まらない。

かつての彼女なら、その痛みに、恐怖に、心が折れていただろう。

けれど今のティナは、その痛みさえも「自分がここにいる証」として飲み込む。


「おおおおおおッ!!」


ティナの巨体が、旋回する。

それはボクシングのフックではない。

鉄球を振り回すクレーン車のような、全方位への無差別な破壊。

ソフィアの急所打ちに合わせ、自身の肉を切らせて、相手の骨を断つためだけの、重機的な暴力。


ドッ、ガァァァン!!


ソフィアの肘打ちがティナの鎖骨を砕き、同時にティナの裏拳がソフィアの肩を跳ね飛ばす。

衝撃が、リングの床板を波打たせる。

精密な計算ソフィアが、制御不能のティナに飲み込まれていく。


「何なの……、何なのよ、あなたのこの……しぶとさは!!」


ソフィアが叫ぶ。

どれだけ急所を叩いても、どれだけ神経を断ち切る一撃を入れても。

ティナの肉体は、あの夜明けの煮物の味を噛み締めた時のように、屈辱と熱を糧にして、何度でも再起動してくる。


二人の体から、汗と血が混じり合った霧が立ち昇る。

合理と、非合理。

白銀の科学と、泥まみれの昭和。

相反する二つの力が、リングという逃げ場のない檻の中で、互いの存在を根こそぎ削り合う。


「……無駄なことなんて、……、……一つも、無かったんだ!!」


ティナの視界が、さらに深く、暗い熱に染まる。

ソフィアの「見えない蹴り」が脇腹を抉る中、ティナはその脚を、肉を裂かれる痛みも構わず両腕で抱え込んだ。


「……捕まえ、た」

「……人は、選択することによってのみ、獣と一線を画す」


ティナの唇から漏れたのは、かつてエデンの中心で、絶望の淵から這い上がるために叫んだあの「宣戦布告」の言葉だった。

ソフィアに脚を掴まれ、逃げ場を失った至近距離。

普通なら絶望するその瞬間、ティナの瞳には、依存を捨てて「一人の人間」として覚醒したあの時の輝きが宿っていた。


「選ばぬ者は、家畜なり……っ。……責任とは、自己への、絶対的な……宣告なり……!」


掴まれた脚から伝わるソフィアの実戦的な殺意を、ティナは自身の精神を研ぎ澄ますための「砥石」に変える。

かつてエデンでソフィアの「合理」に敗れ、それでも立ち上がって自らの意志で地獄を書き換えると誓ったあの夜。

あの時、ティナは自分だけの『エデン』を見つけた。


「私は……もう、何者にも依存しない! この地獄を、私の正解に、書き換える……ッ!!」


咆哮と共に、ティナは捕まれた脚を支点に、全身の筋肉を逆回転させた。

ソフィアが至近距離から放った、頸動脈を貫くような必殺の手刀。

かつてのエデンでのスパーリングなら、それは確実にティナの意識を刈り取っていただろう。


だが。


(……見え、ました)


ティナは、あえて脳震盪を覚悟でわずかに頭をずらし、その「最適解」の軌道を最小限の動きで回避した。

ソフィアの手刀が、ティナの耳元を空しく切り裂く。

驚愕に目を見開くソフィア。

「合理」を突き詰めた彼女の計算式に、この土壇場での「精密な回避」は存在しなかった。


「……効率なんて、知りません。これが、私の……『選択』です!!」


回避によって生まれた、コンマ一秒の空白。

そこに、ティナの全体重を乗せた右拳が、重機のごとき質量でねじり込まれた。

かつてエデンでは重心移動で逃がされた、あの一撃。

だが今は違う。

コウタの「殺すための出力」と、ソフィアの「精密な軌道」。

その二つが完全に融合した、ティナだけの「書き換えられた正解」。


ドォォォォォンッ!!


ソフィアの腹部に、ティナの拳が深々と沈み込んだ。

今度は逃がさない。

衝撃を逃がすための重心移動すら、ティナの圧倒的な圧力が強引に封じ込める。

ソフィアの鉄の肉体が、内側から爆ぜるような衝撃に悲鳴を上げた。


「が、……ぁ、……っ!?」



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