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「……物理、法則?」


側頭部を狙うソフィアの回し蹴り。

その死神の鎌が届く直前、ティナは不格好に上体を沈めた。

回避ではない。

ただ、最短距離で相手を「粉砕」するためだけに、全筋肉を足の裏に集中させる。


(……鉄だろうが、物理だろうが、関係ない)


脳裏に浮かぶのは、自分を追い回したあの軽トラック。

鉄と油の塊。

それを真っ向から押し返し、ベコベコに凹ませたあの感覚だけが、今のティナの真実。


ドォォォォォンッ!!


アリーナの空気が、物理的な爆発音と共に弾けた。

格闘技の「タックル」ではない。

それは、暴走した重機による、ただの「衝突事故」だった。


「なっ……、あああああッ!?」


ソフィアの完璧な防御が、紙細工のように無意味にひしゃげる。

鉄のように硬めたはずの肉体。

だが、ティナの全身全霊を乗せた「軽トラを潰す」質量と速度の前には、合理的な受け流しなど通用しなかった。



 ソフィアの体が、浮いた。

慣性の法則を強引に上書きし、彼女の細い肉体が、文字通りリングの端まで「掃射」される。

ロープが悲鳴を上げ、鋼鉄の支柱をなぎ倒し、そのままアリーナの壁際まで、彼女の体は弾き飛ばされた。


「…………っ!」


場外のコンクリートに叩きつけられたソフィアは、呻き声すら上げられない。

かつてないほどの衝撃が、彼女の「合理」という名の鎧を、内側から粉々に砕いていた。


アリーナが、静まり返る。

誰も見たことがない。

元Aランクの天才が、ただの「体当たり」で舞台から消失する光景など。


「はぁ、……はぁ、………」


リングの上。

ティナは、煙を吐く重機のように、荒い呼吸で立ち尽くしていた。

その視線の先では、シオンが狂喜に満ちた目で、跳ね上がるd-tubeの数字を眺めていた。


(……何で、こんな時に)


泥と血に塗れた顔を、冷たい風が撫でる。

その頬に、妙に生々しい「温もり」が蘇った。

あの、地獄の組手最終日。

夜明けのジムで、コウタから手渡された、冷え切った里芋の煮物。


『……冷めても、美味いもんだな』


砂埃と血が混じった、甘い醤油の味。

一晩中、自分を殺さんばかりに打ちのめしてきた師匠の手から与えられた、唯一の報酬。

あの時、ティナは自分が「以前とは違う生き物」になってしまったことを、朝日の中で静かに悟った。


その煮物を握り潰し、優しさを罵倒したコウタの冷たい瞳。

「お前を待っているのは、その煮物だけじゃない。お前の無様な敗北を嘲笑った、世間の目だ」

「泣くな! 怒れ! 同情されて嬉しいか? 哀れみの目を向けられて満足か?」


(……そうだ)


ティナの拳が、ギリと音を立てて握り締められた。

あの、煮物の味が。

あの、コウタの冷たい声が。

今の自分を、強烈に肯定している。


(……これは、私の身体だ)


ソフィアの「合理」が、自分を「ただの資材」と見なすのなら。

コウタが「甘え」を徹底的に排除した、この泥と鉄の塊こそが。

ティナが、自分自身であるための「証明」なのだ。

彼女の奥歯が、ギリ、と砕けんばかりに噛み締められた。

失われたはずの「怒り」の炎が、肉体の奥深くで、再び燃え盛り始める。


「……そう。……何でこんな時に、思い出してるんだろうな、私」


その声は、アリーナの静寂にゆっくりと溶けて消えた。

まるで、己の新たな『核』を自覚したかのように。

ティナの瞳に、再び獰猛な光が宿った。


場外のコンクリート、瓦礫の中から立ち上がるソフィアの姿は、もはやかつての優雅な『エデン』のランカーではなかった。

真っ白だったウェアは泥と血で汚れ、完璧に整えられていた呼吸は、怒りとも悦びともつかぬ熱を帯びて荒れている。


(……何なの。今の、……今の攻撃は)


ソフィアの脳内コンピュータは、今の一撃を「衝突事故」と判定した。

格闘技のセオリー、重心の移動、それらすべてを無視し、ただ「そこにある物体を粉砕する」ためだけに放たれた、あまりにも野蛮で、あまりにも純粋な質量。


かつて彼女が「醜い重り」と切り捨てたティナの筋肉が、今やソフィアの合理という檻を外側から食い破ろうとしている。

ティナは、ソフィアの教えた「三センチの回避」でもなく、コウタの教えた「昭和の正解」でもない。

自分の中にある、泥と、鉄と、煮物の味をすべて煮詰めた、「名もなき暴力」を完成させていた。


「……いいわ、ティナ」


ソフィアが、自身の鼻から流れる血を舐めとった。

彼女の瞳から、冷徹な「観測者」の光が消える。

代わりに宿ったのは、かつてエデンを追われ、倉庫で一人、壁を殴り続けていた時の「飢えた獣」の光。


「計算できないなら、壊すだけよ。……あなたのその『無駄』を、今度こそ完全に、根こそぎ削ぎ落としてあげる」


ソフィアが再びリングへ跳ぶ。

それは、合理的格闘家としての「調整」ではなく、一人の女が、自分を否定した怪物を殺すための「闘争」の開始だった。


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