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ソフィアの姿が、ティナの網膜から掻き消えた。

「速い」という認識すら、脳に届かない。

合理に倉庫での孤独な「純化」が加わった、究極の踏み込み。


ド、と重い衝撃がティナの視界を真横に跳ね飛ばした。

ソフィアの左フック。

最短の軌道で放たれた一撃は、ティナのガードを紙屑のようにすり抜け、その顎を的確に撃ち抜いていた。


「……が、っ」


意識が、プツリと白濁する。

脳が揺れ、平衡感覚が消失した。

世界が歪み、足元が泥沼のように沈んでいく。

かつてコウタに浴びせられた冷水よりも、ずっと鋭く、冷徹な死の感触。


(……ああ、やっぱり、だ)


追撃が来る。

ソフィアは止まらない。

彼女の計算は、ティナの意識を完全に刈り取るまで終わらない。

右、左、そしてレバーへの突き刺すような前蹴り。

ティナの分厚い肉体が、まるで精巧な機械に解体される部品のように、一方的に刻まれていく。


「…………」


リングサイドで、シオンの指が跳ねた。

タブレットの画面には、ティナの生命維持機能が限界に近いことを示す、真っ赤なアラートが点滅している。

だが、シオンは止めない。

その瞳は、限界を超えた先で、ティナという怪物が何を「吐き出す」のかを待ち望んでいた。


(……痛い)


ティナの視界は、すでに血と火花で塗り潰されている。

ソフィアの正解は、あまりにも残酷で、あまりにも正しかった。

一秒で終わらせる。

その言葉通り、ティナは膝を突く寸前まで追い詰められていた。


だが。

その絶望の淵で、ティナの奥歯がギリ、と軋んだ。


(痛い、けど。…………これ、知ってる)


泥を啜った味。

軽トラに追い回された恐怖。

誰にも望まれず、ただ壊れるためだけに立っていた地獄。

ソフィアが「ノイズ」と切り捨てたその痛みが、今、混濁する意識を強引に繋ぎ止める鎖となった。


ティナの左腕が、意思とは無関係に、跳ね上がるように動いた。

それはソフィアが教えた「防御」ではない。

コウタが叩き込んだ「生存」のための、無骨な盾だった。



「これで、修正完了ね」


ソフィアの冷徹な一言と共に、トドメの右ストレートが空気を切り裂いた。

ティナの意識はすでに霧の向こう。

膝は砕け、視界は赤黒く染まっている。

格闘技としての正解は、ここで力なく倒れ、キャンバスに沈むことだった。


だが。


(……、……動け)


ティナの奥歯が、砕けんばかりに噛み締められた。

合理も、技術も、解析も届かない場所。

泥の中で、ただ「生き延びろ」と命じられてきた野性が、混濁した脳に火をつけた。


ドッ!!


鈍い、肉と骨が衝突する音がアリーナに響いた。

それは拳の音ではない。

ティナが、意識を失う寸前の慣性をすべて預け、自身の額をソフィアの顔面へと叩きつけた音だった。


「……!?……っ!」


ソフィアの瞳に、初めて狼狽が走った。

最短の軌道、最速の打撃。

そのすべてを網羅していた彼女の計算式に、「自ら脳震盪を加速させる捨て身の頭突き」などという解は存在しない。


コンマ一秒。

ソフィアの回避が、その「異常」を処理しきれずに遅れた。

ティナの額が、ソフィアの鼻先を掠める。

わずか数ミリ。

だが、その数ミリが、絶対強者だったソフィアの姿勢を決定的に崩した。


「が、はっ……、あああああッ!!」


返り血を浴びたティナが、喉の奥から獣のような咆哮を上げた。

意識を繋ぎ止めているのは、もうプライドでも敬意でもない。

ただ、コウタに叩き込まれた「立ち続けろ」という呪いにも似た生存本能。


崩れたソフィアの懐に、ティナの血塗られた拳が、重機のようにねじり込まれた。



「……そう。それが、あなたの正解なのね」


鼻先を掠めた衝撃。

わずかに裂けた皮膚から流れる鮮血を、ソフィアは拭いもしなかった。

体勢を崩したはずの彼女は、物理法則を無視したような重心移動で、その場に踏み止まる。


ティナの渾身の拳が、ソフィアの腹部へめり込んだ。

肉がひしゃげ、背中まで突き抜けるような衝撃波。

だが、ソフィアは呻き声一つ上げない。


「…………っ!?」


ティナの拳に伝わってきたのは、肉の柔らかさではなかった。

それは、何層にも鍛え上げられ、極限まで密度の高まった、冷たい「鉄塊」を殴ったような感触。


エデンを追われた彼女が、古い倉庫で何をしていたのか。

コンクリートを叩き、錆びた鉄パイプで肉体を打ち据え続けた。

異常なまでの「耐久力」だった。


「驚いた? 」


ソフィアの瞳に、冷徹な光が戻る。

腹部に拳をめり込ませたまま、彼女はティナの腕を、万力のような力で掴み取った。


「…………離せ……ッ!」


ティナがどれほど力を込めても、ソフィアの肉体は微動だにしない。

一撃を食らってなお、その計算精度は落ちるどころか、ティナの「異物感」を取り込んで、より強固に再構築されている。


「これで!」


ソフィアの至近距離からの膝蹴りが、ティナの脇腹を容赦なく抉った。


「…………離せ……ッ!!」


ティナの声は、もはや言葉になっていなかった。

万力のように掴まれた右腕。

ソフィアの鉄の肉体に、どれだけ拳を叩き込んでも、その硬質な静寂は揺るがない。


(なら……ッ!)


ティナは逃げることをやめた。

掴まれた腕を軸に、全身のバネを逆方向に絞り上げる。

そして、剥き出しの殺意を込めて、自らの頭部をソフィアの顔面へ何度も叩きつけた。


ドッ、ゴッ、ベチャッ!!


アリーナの静寂を、骨と肉が潰れ合う不快な音が支配する。

一回、二回、三回。

額が割れ、血が噴き出し、視界が真っ赤に染まっても、ティナは頭突きを止めない。

それは格闘技の攻防ではなく、岩に頭をぶつけ続けて粉砕しようとする、狂った重機の挙動だった。


「っ、ぐ……、あああ……っ!!」


さしものソフィアも、顔面への直接的かつ連続的な「異物」の衝突に、その計算を維持できなくなった。

どれだけ肉体を硬化させても、脳を揺らす物理的な振動までは殺しきれない。

視界が火花を散らし、鼻腔から溢れた鮮血が彼女の冷静な唇を汚していく。


掴んでいたティナの腕が、耐えきれずに緩む。

ソフィアはたまらずティナを突き放し、大きくバックステップを踏んだ。

一度、仕切り直さなければ「壊される」。

その直感が、彼女の合理性に初めて退避を命じた。


「…………はぁ、はぁ、はぁッ!!」


数メートル離れた位置で、ティナが膝を突きそうになりながら踏み止まる。

顔面は自身の血とソフィアの返り血でぐちゃぐちゃだ。

それでも、その瞳だけは、暗闇の中で獲物を狙う獣のように光を失っていない。


アリーナの観客は、あまりの凄惨さに声を失っていた。

ただ一人、シオンだけが、暗闇の中で踊るように指先を震わせている。



 ソフィアが深く、一度だけ呼吸した。

その瞬間、彼女を包んでいた「揺らぎ」が霧散する。

鼻血を流し、顔面を汚しながらも、その構えにはミリ単位の狂いすら戻っていた。


「……認めざるを得ないわね。あなたは、単なるノイズじゃない」


ソフィアの体が、静止した状態から爆発的に加速した。

距離を置いたのは、逃げるためではない。

ティナという猛獣を確実に仕留めるための、「滑走距離」を確保するため。


(……速いッ!)


ティナが反応しようとした瞬間には、ソフィアの蹴りはすでに放たれていた。

倉庫の闇の中で、音もなくコンクリートを削り続けた「見えない蹴り」。

予備動作を完全に排したその一撃は、ティナの視界の外、死角から顎を正確に狙い撃つ。


ドッ!!


ティナの巨体が、横方向へ強引にねじ曲げられた。

ガードの上からでも、腕の骨を叩き折らんばかりの衝撃が突き抜ける。

ソフィアの蹴りは、もはや格闘技のそれではなく、精密に計算された「杭打ちパイルドライバー」の打撃だった。


「が、はっ……、あ……!」


一撃ではない。

着地と同時に放たれる、流れるような連撃。

右のミドル、左のハイ、そして着地際のロー。

すべてが一点の曇りもない合理的な軌道を描き、ティナの肉体を容赦なく削り取っていく。


ソフィアの瞳に、冷徹な計算が再び宿る。

どれだけ頑丈な重機であっても、接続部(関節)を狙い、振動を蓄積させれば、必ず崩壊する。

彼女は今、ティナを「格闘家」としてではなく、解体すべき「資材」として淡々と処理し始めていた。


「どれだけ叫ぼうと、物理法則は裏切らないわ」


ソフィアの鋭い回し蹴りが、ティナの側頭部を捉えようと、死神の鎌のようにしなった。


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