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一週間前。
シオンから事務的に手渡された、一枚の対戦カード。
そこに刻まれた名を目にした瞬間、ティナの肺から酸素が消えた。
ソフィア。
Aランク陥落のニュースが流れた時、ネットの海には「終わった」「合理的格闘技の限界」という嘲笑が溢れていた。
L_White「彼女はそんなタマじゃない」
だがティナだけは知っていた。
あの白銀の『エデン』で、指先一つ触れさせなかった彼女の、絶対的な底知れなさを。
「彼女、エデンを追い出された後……自費で古い倉庫を改造したらしいわよ」
シオンが、興味深げにタブレットの画面をスライドさせる。
そこには、華やかなウェアを脱ぎ捨て、簡素な軍用スウェットを纏ったソフィアがいた。
最新鋭のセンサーも、優雅なアロマもない。
剥き出しの鉄骨と、冷たいコンクリートの塊。
かつてティナの泥臭さを非効率と切り捨てた彼女が、今、その環境の中で合理性を研ぎ澄ませている。
無機質な瞳。
無駄を削ぎ落とし、ただ敵を効率的に殺すためだけの純粋な殺戮回路。
それは、敗北によって人間に落ちたのではなく、執着によって格闘の化身へ昇華した者の姿だった。
「ソフィアさんは……止まって、ない」
本気のソフィアに、私は触れることすらできるのか。
ティナは震える手で、対戦カードを握り潰した。
「いいわ。今のあなたは、もう私の解析すら超えている」
現在。
シオンは、手元のタブレットで最後の一押しを実行した。
その瞬間、アリーナの巨大な照明が次々と落ち、リング上の一点だけを、暴力的なまでの白光が貫く。
世界中に配信されているd-tubeの画面には、シオンが密かに構築した特殊UIが展開されていた。
心拍数、体温、筋電位。
ティナの生命が、剥き出しの数字となって世界中の網膜に焼き付けられる。
視界に映るのは、無限に跳ね上がる同時視聴者数。
それは格闘技の配信ではなく、一匹の怪物が産声を上げる瞬間を観察する、冷徹な実験場の光景だった。
「…………」
シオンの指先が、不自然なほど深く、膝の上で震える。
彼女にとって、今のティナはもはやただの弟子ではない。
既存の格闘論、エデンの合理、自らの解析。
そのすべてを無慈悲に食い破り、システムに致命的なエラーを叩きつけるための劇薬だ。
(さあ、見せなさい、ティナ)
シオンの口角が、暗闇の中でゆっくりと吊り上がった。
かつて誰も見たことがない、泥から生まれ、合理を食らい、すべてをガソリンに変えて走る未完成の怪物。
その真価を、その異様さを、世界に刻みつけるための舞台は整った。
「……行きなさい。私の計算を、もっと、……もっと無茶苦茶に壊して」
その声は、熱狂の前の静寂に溶け、ティナの背中を、奈落の底へと優しく突き落とした。
リング中央。
ティナは深く、静かに頭を下げた。
恐怖は消えていない。
けれど、かつて自分を突き放し、自立のきっかけをくれた恩人への、純粋な敬意がそこにはあった。
「ソフィアさん、お久しぶりです。……私の道を見つけてきました」
ティナは顔を上げ、かつてバグと呼ばれた瞳を、真っ向からぶつけた。
「……今の私を、あなたに見てほしい。……殴られるのは、怖いです。でも」
「止まれないので。……行きます」
「……ええ。いいわ、ティナ」
ソフィアが、深く沈み込む。
その一瞬、彼女の瞳に宿ったのは、格闘家としての慈悲ですらなかった。
キィィィィィン!!
ゴング。
刹那、ティナの視界から正解が消失した。




