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「…………足りない」
深夜の地下ジムに、肉を焼く凄まじい爆音と脂の匂いが充満していた。
2トンの鉄塊を担ぎ、コウタへの意地だけで数キロを歩ききったティナ。
アドレナリンが切れた彼女の胃袋は、今やあらゆる有機物を飲み込む暗黒のブラックホールと化していた。
「ちょっと、待ちなさい……! 次が焼けるまで、このプロテインバーでも齧ってて!」
完璧主義の解析者、シオンが形振り構わずフライパンを振るっている。
コンロには巨大なステーキ肉が三枚、同時に並べられ、猛烈な勢いで焼き上げられていく。
ティナはそれを、一切れずつではなく「一枚ずつ」丸めて口に放り込んだ。
「……んぐ、……あふっ、……おいひい……」
「当然よ。最高級の赤身肉なんだから。……でも、これ一晩で私の今月の食費が消えるわね」
シオンは額の汗を拭いながら、傍らにセットした三脚上のカメラを見つめた。
レンズの向こう側では、ライブ配信の視聴者数が、物理的な速度で跳ね上がっている。
タイトルは『【実録】2.5トンの新車を担いだ女、ステーキ10kgを完食できるか』。
『これ、CGじゃないのか……?』
『さっき車担いで歩いてた子だろ!? 筋肉が生き物みたいに動いてるぞ』
『シオンさんのフライパン捌きが追いついてないの草』
画面を埋め尽くすコメントと、止まらないスーパーチャットの嵐。
ティナが肉を噛みちぎり、喉を鳴らして飲み込むたびに、コウタへの弁償で空っぽになった二人の銀行口座に、莫大な「弾薬(金)」が補充されていく。
「……ティナ。……あなた、今、世界中の視線を食べてるのよ」
「視線……? よくわかんないけど……お肉、おかわり」
シオンは苦笑し、最後の塊を豪快に皿へ盛り付けた。
鉄を砕いた拳で、今度は肉を支配する。
ボロボロだった細胞が、猛烈な栄養を吸収して膨れ上がり、より強固な、より密度の高い「怪物」へと再構築されていく。
「……ごちそうさまでした。……ふぅ」
最後の一片を飲み込んだ瞬間、ティナの瞳に、かつてないほど透明な闘争心が宿った。
食費の問題は解決した。
体の修復も、今、終わった。
シオンはカメラの録画を止め、静かにティナの肩に手を置いた。
それは後に、格闘界の歴史において「重機の蹂躙」と呼ばれる暗黒の1ヶ月となった。
「――次」
ティナの声が、静まり返ったアリーナに響く。
リングの中央には、かつてBランク上位で「不沈艦」と恐れられた巨漢の格闘家が、ただの一撃で意識を失い、マットに沈んでいた。
試合時間は、わずか12秒。
ティナは返り血すら浴びることなく、無機質な瞳で次の対戦相手を求めていた。
「スピードスター」の異名を持つ軽量級の昇格候補。
彼はティナの周囲を時速30キロの高速ステップで翻弄しようとした。
だが、2トンの鉄塊を担いで歩くティナの体幹にとって、その動きは止まっているも同然だった。
シオンの解析に基づき、ティナは最小限の予備動作で「正解の空間」に拳を置いた。
そこに自ら突っ込んだ対戦相手は、顎を砕かれ、フェンスを突き破って客席まで吹き飛ばされた。
もはやBランクにティナの進撃を止められる者は一人もいなかった。
対戦相手たちはリングに上がる前から、ティナが放つ「存在の質量」に気圧され、戦意を喪失した。
連勝。
連勝。
すべてが秒殺。
d-tubeのコメント欄は、熱狂を通り越して「恐怖」に染まっていた。
『これ、放送事故だろ。格闘技の形をしてない』
『彼女が動くたびに、リングが悲鳴を上げてるぞ』
L_White『かつてのコウタの野蛮さと、最新科学の冷徹さ……とんでもない怪物が生まれたな』
爆発的な再生数と共に流れ込む莫大な収益。
今や一晩の配信で軽トラを数台買えるほどの「価値」を持つ存在へと変貌していた。
しかし、本人の心は凪いでいた。
どれだけ勝っても、脳裏にこびりついたコウタの怒号と、ライカの背中が消えることはない。
「…………調整、終了ね」
シオンがタブレットを閉じ、満足げに微笑んだ。
ティナの肉体からは不要な脂肪が完全に削ぎ落とされ、鋼のような筋肉が皮膚を押し上げている。
Bランクという名の「家畜小屋」での作業は、これですべて終わった。
「行きましょう、ティナ。……いよいよ、Aランクの門が開くわ」
ティナは黙って拳を握り込んだ。
その拳には、もはや誰の指示も、誰の正解も必要ない。
ただ、目の前の壁を粉砕するための「自分だけの正解」が、鈍い熱を帯びて宿っていた。




