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「……、え?」
地下ジムの静寂を切り裂いたのは、シオンのスマートフォンの無機質な通知音だった。
画面に表示されたのは、弁護士を通じた公式な文書。
『重要:貸与資産(軽トラック)の全損に関する損害賠償請求について』。
送り主は、コウタ・ジム。
そこに記された金額は、中古の軽トラ数台分に相当する、嫌がらせのような法外な数字だった。
「……あいつ、……あのクソ師匠……ッ!」
ティナは、震える手でその画面を凝視した。
壊したのは自分だ。
だが、その背後にある「いつまでも俺の鎖からは逃れられない」というコウタの冷笑が透けて見える。
シオンは、冷たい目でその請求書を一瞥し、スマートフォンをポケットにねじ込んだ。
「……いいわ。金で解決するつもりなんて、元からないんでしょうし」
シオンはガレージの隅、油塗れで転がっている「鉄の死体」を指さした。
シャフトが折れ、もはや自走不能となったあの軽トラだ。
「ティナ。……こいつを、今すぐここから消すわよ。……私たちの手で」
シオンが放り投げたのは、かつてティナを縛り付けた、あの太い麻縄だった。
「……ええ。望むところよ」
ティナは自ら縄を胴体に巻き付けた。
今度はコウタの運転する座席はない。
ただ、一トン近い鉄の塊が、死神のように彼女の背後に居座っている。
ティナは地面を蹴った。
ジムから数キロメートル離れた、郊外の解体工場。
そこまでの上り坂を、彼女は一人で「引きずり」始めた。
「――ぬ、んっ、……が、あぁああああ!!」
ドォォォォォン!! と、アスファルトを削る異音が深夜の住宅街に響く。
タイヤの回転を拒絶する鉄の塊を、ティナの強靭な大腿四頭筋が、一歩、また一歩と強引に前へ進ませる。
背後でシオンが、ドローンの映像を確認しながら淡々と指示を飛ばす。
「重心が浮いているわ。……逃げるんじゃない、……トラックの重さをすべて、自分の熱量に変換しなさい」
「……分かって、……ますッ!!」
汗が滝のように流れ、全身の毛細血管がはち切れそうに拍動する。
かつては、ただ引きずられて泣いていた。
今は、自分の意志で、この「絶望」を目的地まで運んでいる。
夜明け前、二人はようやく、巨大な重機が立ち並ぶ解体工場の中心に辿り着いた。
「……ついた、……はぁ、……はぁ……」
「終わりじゃないわ。……仕上げよ、ティナ」
シオンが、工場の巨大プレス機を指さした。
だが、彼女はそのスイッチには手をかけない。
代わりに、自身の手袋をきつく締め直し、ティナの隣に立った。
「重機なんていらない。……コウタの呪いを、物理的に『無』に変えるわよ」
「……はい、……シオンさん!!」
二人は、歪んだ軽トラの両サイドに立った。
ティナが、その圧倒的な怪力でルーフを掴み、内側へと押し潰す。
シオンが、最も脆弱な支柱に的確な衝撃を加え、力のベクトルを一箇所に集中させる。
バキバキバキッ!!
鉄が悲鳴を上げ、ガラスが粉々に砕け散る。
ティナの拳が、厚いボンネットを紙のように折り畳んでいく。
かつて自分を脅かした「凶器」が、二人の手によって、ただの小さな鉄のサイコロへと凝縮されていく。
「……あ、……ああああああ!!」
渾身の力。
ティナの咆哮と共に、最後の一押しが加わった。
そこにあったのは、もはやトラックの形すら留めない、無残に圧縮された鉄の塊。
コウタが「正解」だと誇った昭和の遺物は、二人の「現在」の力によって、完全に消滅した。
「……検品、……終了ね」
シオンが、油に汚れた顔で、ほんの僅かに微笑んだ。
ティナは、自分の赤く腫れ上がった拳を見つめた。
そこには、里芋の味を覚えたまま、地獄を自らの力で粉砕した「人間」の熱が宿っていた。
深夜。
コウタ・ジムが面する静かな路地に、異様な「音」が響き始めた。
エンジン音ではない。
ミシミシ……、ミシミシ……。
巨大な力が、アスファルトを物理的に押し潰し、地殻を揺らすような、重苦しい足音。
「……来たわね」
門前に立つシオンが、闇の向こうを見つめて呟いた。
街灯の光に照らされて現れたのは、悪夢のような光景だった。
最新鋭の大型四輪駆動車。
二トンを超えるその「鉄の塊」が、地面から浮いている。
その下に、一人の女がいた。
「――ぬ、んっ、……ふ、ぅううう!!」
ティナだった。
特注の緩衝材を肩に食い込ませ、巨大な車両を文字通り「背負って」彼女は歩いていた。
太腿の筋肉は、はち切れんばかりに膨張し、一歩踏み出すごとにアスファルトに深い亀裂が刻まれる。
それはもはや、格闘家のトレーニングという領域を、完全に逸脱していた。
「……ふっ、……せいッ!!」
ジムの門前。
コウタが冷徹な瞳で立ち尽くすその目の前で、ティナは膝を曲げた。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波と共に、新車が地面に設置される。
空気が震え、ジムの窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げた。
「……納車、……完了よ。……師匠」
ティナはゆっくりと腰を伸ばした。
肩からは湯気が立ち上り、全身の毛穴から吹き出した汗が、路面を濡らしている。
背負っていたのは、ただの車ではない。
コウタが自分に課した「地獄」という名の重り、そのすべてだ。
「……フン。重機を呼ぶ金も無かったか」
コウタは吐き捨てた。
だが、その声は僅かに震えている。
目の前にいるのは、かつて自分が軽トラで引きずり回した「家畜」ではない。
二トンの鉄塊を担ぎ、平然と自分の前に降ろしてみせる、理解を超えた「怪物」だ。
「……いいえ。これが、今の私の『歩幅』だって、見せたかっただけ」
ティナは、乱れた呼吸を整えながら、コウタの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
今、この瞬間。
ティナの中で、ずっと続いていた「恐怖」が、完全に「憐れみ」へと書き換えられた。
かつては巨大に見えたこの師匠が、今は、担いできた新車よりもずっと、小さく見える。
「お釣りは、……あんたの最高傑作の、治療費にでも使いなさい」
ティナはそれだけ言い残すと、一度も振り返ることなく、シオンと共に闇の中へと消えていった。
門前に残されたのは、圧倒的な質量感を持つ新車と、それによって無残に砕かれた、コウタのプライドの破片だけだった。




