28
(……あ。……シオンさんの、声が、消えた……)
(……リリの、拳……。……リリの、顔……)
ドォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!
会場中の空気が震え、爆鳴が鼓膜を突き破った。
ティナの右拳がリリの顎を打ち抜き、同時に、リリの渾身の左ストレートがティナの眉間にめり込んでいた。
「……ッ、……ッ!!」
「……あ、……あ……ッ!!」
一瞬、時間が止まった。
互いの拳が、互いの存在を否定するように深く、重く、肉へと沈み込んでいる。
次の瞬間、二人の体から同時に力が抜けた。
ドサッ。
糸の切れた人形のように、二つの影が同時にキャンバスへと崩れ落ちる。
静寂。
さっきまでの熱狂が嘘のように、会場は冷や水を打たれたような静まり返った。
(……天井が、……回ってる。……真っ白……。……シオンさん、……私、……今、……倒れてる……?)
(……動かない。……指一本、……動かない。……でも、……胸が、……こんなに、……熱い……)
リリもまた、瞳を開けたまま、焦点の合わない目で天井のライトを見つめていた。
科学も、地獄も、根性も、すべてを出し切った果ての、完璧なまでの同時ダウン。
「……レ、レフェリーッ!!」
シオンの悲鳴のような叫びで、ようやく審判が動き出す。
倒れた二人の間で、カウントが刻まれ始めた。
「ワン! ……ツー! ……スリー!!」
(……立たなきゃ。……立たなきゃ、……シオンさんに、……怒られる……)
(……負けたくない。……あんな、……ボロボロの、……あの子にだけは……!!)
「フォー! ……ファイブ! ……シックス!!」
二人の手足が、泥の中でもがくように痙攣する。
立ち上がろうとする意志と、それを拒絶する肉体の悲鳴。
メインイベント。
勝負の行方は、もはや技術でも知性でもなく、どちらの魂が先に「肉体の枷」を振り切るかに委ねられた。
(……あ。……カウント、……聞こえない……)
(……ライト、……眩しいな……。……でも、……暗くない……)
「セブン! ……エイト! ……ナイン!!」
レフェリーの声が、遠く、泡の向こう側で響いている。
ティナは指先を動かそうとしたが、脳からの信号はズタズタに断線していた。
すぐ隣で倒れているリリも、同じだった。
彼女の最新デバイスは、とっくに限界値を超えて沈黙している。
「テンッ!! ……試合終了!!」
カン、カン、カン、カンッ!!
狂ったように打ち鳴らされるゴングの音。
それは、どちらの勝利も告げない、非情で、そして慈悲深い幕引きの合図だった。
「……引き分け……? ……嘘……」
シオンは、震える手で顔を覆った。
涙が、指の隙間から溢れ出す。
自分の「猛毒」をすべて飲み込み、科学の粋を尽くした相手と互角に渡り合った。
その事実が、シオンという格闘家の魂を救い上げていた。
「……あは、……あはは……」
キャンバスに転がったまま、ティナの口から乾いた笑いが漏れた。
痛みで意識が飛びそうなのに、視界の端で、リリもまた、同じように口角を上げているのが見えた。
「……リリ、……すごかった……。……私、……死ぬかと思った……」
「……こっちの、……セリフよ。……科学が、……あなたの、……理不尽の目の前で……次は越える……」
二人は、泥と血にまみれた右手を、ゆっくりと、震わせながら伸ばした。
指先が、わずかに触れ合う。
三年前の「三年間の差」は、今、この瞬間の「ゼロ」という拮抗で、完全に上書きされた。
「……でも、……次は、……負けないから」
「……うん。……私だって、……シオンさんに、……もっと、……地獄、……教えてもらうもん……」
二人の少女は、担架が運び込まれるまで、触れ合った指先の熱を感じながら、回る天井を眺め続けていた。
決着はつかなかった。
だが、リングを降りる二人の背中には、もはや「家畜」の面影も、「効率」という名の虚勢も、どこにも残ってはいなかった。




