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(……加速。……120%。……解析限界を、突破……!)
「ハァッ!!」
リリの右、最短のストレート。
(……見えない。……でも、……そこに『ある』……!)
「シィィッ!!」
ティナの脳内に焼き付いた残像。
数式が弾け飛んだ空白に、シオンと学んだ「骨の道筋」だけが浮かび上がる。
避けない。
最小の動きで拳を逸らし、リリの顎へ、下から掌底を突き上げる。
「……ガッ、……ハッ!!」
脳を揺らす衝撃。
だが、リリの瞳の光は、一秒たりとも曇らない。
「……まだまだぁッ!!」
「……ハァッ!!」
顎を跳ね上げられた姿勢のまま、リリが強引に首を振り、至近距離から肘を叩き込む。
ティナの眉間が割れ、鮮血が舞った。
(……痛い。……でも、……心地いい……!)
「フッ! ハッ! セイッ! オラァッ!!」
リリの連撃が加速する。
一発、二発、三発——。
(……この連打は止まらない。……絶対に止まらないッ!)
「セイッ! ハッ! フッ! シャァッ!!」
四発目、五発目。
リリの心拍数は限界値を超えているはずだった。
だが、彼女の拳に、疲労の影は微塵もない。
(……私の『スタミナ』は、………! 朝から晩まで、吐くほど走り込んだ。……酸素効率を極限まで高めるために、呼吸法を何千回も反復した。……栄養学、生理学、すべてを学び尽くして、この肉体を作り上げた……!)
「トォッ! セイヤァッ! ハッ! フゥッ!!」
六発目、七発目、八発目——。
ティナのガードが徐々に沈み始める。
(……ティナ、あなたがどれだけ地獄を見てきたのか、私にはわからない。……でも、私だって……! たった一度も手を抜かなかった! 雨の日も、風の日も、体調が悪い日も……! 走って、打って、測定して、改善して……!)
「オラァッ! シィッ! ハァッ! セイヤァッ!!」
九発目、十発目、十一発目——。
リリの拳が、もはや光の束となってティナを包囲する。
(……この連撃は、『証明』なのよ……! どっちが上かなんて関係ない……! 私は……私のやり方で……高みに来た!!)
「ハッ! シッ! フッ! ドォォォッ!!」
十二発目、十三発目、そして——。
「……シィッ!!」
ティナが、その光の束の隙間を縫うように、一撃のカウンターをねじ込む。
リリの頬が跳ね上がった。
(……ッ! ……やっぱり、……あなたは……!)
だが、リリは止まらない。
むしろ、その衝撃が彼女の闘志をさらに加速させた。
「……私の連撃は……鳴り止むことなんて、絶対にないッ!! 死ぬほどやった練習が……この私の、無限のスタミナなんだからァッ!!」
リリの絶叫。
それは自分自身への、そしてティナへの宣戦布告。
(……リリ。……あなたの拳、……重くなったわね。……科学の殻が、……剥がれてきてる……!)
(……ティナ。……あなたの目、……もう何も見てない。……なのに、……どうして私の急所ばかり、……吸い込まれるの……!)
「トォォォォッ!!」
「……シャァァァッ!!」
二人の咆哮が重なり、衝撃音が連続してリングを震わせる。
一人が打てば、一人が返す。
一人が崩れれば、一人が無理やり引き戻す。
それはもはや技術の競い合いではなく、どちらの「存在」が先に折れるかを問う、原始的な魂の削り合いだった。
(……脳が、……溶ける。……でも、……止まらない。……この『地獄』が、……最高に、……楽しい……!)
(……シオンさん。……私、……今、……最高に……)
脳内の数式が、リリの拳が弾けるたびに、火花を散らして消えていく。
視界は真っ赤に染まり、耳の奥では、自らの心臓がドラムのように激しく打ち鳴らされていた。
「……ハッ! ……ハァッ!! ……シィィッ!!」
打って、打たれて。
骨が軋む音さえ、心地よいリズムに聞こえる。
ティナの意識は、もはやリングの上にはなかった。
そこにあるのは、シオンと二人、ノートを広げて「地獄」を読み解いた、あの静かな部屋の熱量だけだ。
(……ああ。……シオンさん。……私、……わかったよ。……あなたが、……私に何を、……託したかったのか……)
セコンドの椅子に、幽霊のように深く沈み込んでいたシオンが、震える手で膝を叩いた。
視界が、滲んでいる。
自分が作り上げた「最高傑作」が、今、自分さえも到達できなかった高みで、一人の少女と魂を削り合っている。
「……ティナ。……あんた、……なんて……」
シオンの頬を、熱いものが伝い落ちた。
かつて「怪物」と呼ばれ、孤独の中で己を削り続けていたシオン。
旅から戻り、ボロボロになりながらティナに「猛毒」を詰め込んだ日々。
その全てが、今、ティナの放つ一撃一撃の中に、眩しいほどの輝きとなって結実していた。
(……私が、……あんたを、……地獄へ引きずり込んだのに。……あんたは、……そこで……。……なんて、……綺麗な、……顔をして……)
シオンは、声にならない嗚咽を漏らした。
それは後悔ではない。
自分の「命」という名の松明を、ティナという新しい炎に完全に受け渡した者だけが味わう、至福の喪失感。
「……いけッ! ……ティナァッ!! ……全部、……焼き切ってしまいなさいッ!!」
シオンの、魂を振り絞るような絶叫が、静まり返った会場に響き渡った。
その瞬間、ティナの脳内で、最後の一つの数式が弾け飛ぶ。
(……はい。……シオンさん。……行ってきます……!)
——完全な「無」。
ティナの拳から、迷いも、理論も、重圧も、すべてが消えた。
ただ、シオンが愛した「格闘技」という名の純粋な暴力だけが、リリの「無限」の懐へと吸い込まれていく。
(……シオンさんの、声。……リリの、セコンドの、声……。……全部、聞こえる……)
「……ハァッ、ハァッ!! ……リリッ!! ここまで来たら、あとは根性よ!! ……あなたの、今までの成果を見せるのよッ!!」
リリのセコンド——科学的トレーニングを共にしてきたコーチが、その理論をかなぐり捨て、喉を潰さんばかりに咆哮し涙した。
「……ああ、わかってるわよッ!! ……私の、全部をッ!!」
「……シィィィィィッ!!」
リリの、理屈を捨てた渾身の右。
ティナは避けない。
脳内の数式はもう、一つも残っていない。
ただ、シオンの涙と、相手のコーチの叫びが、火花となって肉体を突き動かしていた。
(……根性。……成果。……そうだね、リリ。……私たち、……似たもの同士、……なのかもしれない……)
「フッ! ハッ! セイヤァッ!!」
「……ッ! ……ッ! ……オラァッ!!」
リリの、命を燃やすようなラッシュ。
ティナの、地獄を上書きするようなカウンター。
互いの拳が顔面を捉え、血飛沫が交差する。
もはや最新のデバイスも、精密な解析も、この「根性」のぶつかり合いの前では何の意味もなさなかった。
(……リリ。……あなたの、三年間。……私の、地獄の数ヶ月。……どっちが、……強いかな……!)
(……ティナ。……あなたの、その目……。……私、……今、……最高に、……生きてるッ!!)
「トォォォォォォッ!!」
「シャァァァァァッ!!」
二人の咆哮が、会場の空気を震わせ、一つに溶け合う。
シオンは、涙で歪む視界の中で、ただひたすらに祈るようにティナを見つめていた。
リリのセコンドも、身を乗り出し、自らの魂を教え子に叩きつけるように叫び続けていた。
(……行こう。……リリ。……この、……一撃で……!)
(……来なさい、……ティナ。……全部、……受け止めて……超えてみせるわッ!!)
二人の拳が、互いの「根性」を乗せて、同時に、最短距離で振り抜かれた。




