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 境界からの帰還

 

「ただいま。結構、長旅になっちゃった」


振り返ると、旅の汚れを纏ったシオンが、以前よりもずっと穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

ティナはリハビリの手を止め、驚きに目を見開く。


「シオンさんどうだった? 昔の場所は」


シオンはティナの隣に腰を下ろすと、少しだけ寂しそうに、でも力強く首を振った。


「結局ね、もうとっくに遅かったわ。捨てたものは簡単には手に入らなかった。時間が立ちすぎてたし、何より私が変わりすぎちゃってたから」


シオンは自分の節くれだった拳を見つめる。

格闘に染まったその手は、かつての温かな日常を掴もうとしても、どこか噛み合わなかった。


「でも、もう一度向き合えた。それが私の中のしこりを溶かしてくれたの。……今は無理でも、これから先、何度も、何度もチャレンジしようって思えたから。失った時間を、今度は一生かけて繋ぎ直していくわ」


諦めたのではない。

「一回で取り戻せる」という甘い考えを捨て、永劫続く「再生への挑戦」を覚悟したのだ。


「だから、今はティナ、あんたのそばにいる。あんたがこの地獄でどう戦い抜くか、それを特等席で見届けるのが、今の私の修行よ」


シオンはティナの肩に、優しく、だが重みのある手を置いた。

その温もりは、かつての「怪物」としての殺気ではなく、地獄の底で共に生きる「姉」としての慈愛に満ちていた。


「おかえりなさい、シオンさん」


ティナは短く答え、再びゴムチューブを握りしめた。

シオンが隣にいる。

かつて同じ絶望を共有した彼女が、今は「諦めない強さ」を纏って戻ってきた。

その事実が、ティナの肉体に、どんな薬剤よりも確かな熱を注ぎ込んでいた。



地獄の再構築

リハビリ中のティナの前に、シオンは数冊の分厚いノートと、そして——あの頃と同じ、正体不明のドロリとした「特製プロテイン」が入った銀色のボウルを置いた。


「ねえティナ。こういうの、懐かしいでしょう?」


シオンはクスクスと、喉の奥で不敵に笑った。

ボウルから漂う、生卵と煮干し粉が混ざり合ったあの独特の「地獄の臭い」。

ティナの胃が、記憶だけでキュッと悲鳴を上げる。


「コウタさんの詰め込み教育。昼はウサギ跳びで地面を砕き、夜はこの『泥水』を喉に流し込まれながら、解剖学の数式を暗唱させられた。……あんた、まさか忘れたなんて言わないわよね?」


シオンはノートを乱暴に開き、ティナの目の前に突きつけた。

そこには、物理的な打撃の軌道と、人体の急所がびっしりと書き込まれている。

文字が掠れているのは、かつて二人が流した汗と涙の跡だ。


「今のあんたは『完全な治療』を選んだ。なら、やることは一つよ。……あの頃、死ぬ気で詰め込まれた『理屈』を、今度は自分の意志で、一滴残らず脳に叩き込み直しなさい」


シオンはペンをティナの指の間にねじ込み、ボウルを口元へ寄せた。


「食べなさい、ティナ。そして学びなさい。あの頃は『殺される恐怖』で詰め込まれたけど、今は『勝つための飢え』でこれを飲み込むのよ。……吐いたら、また最初から。昭和のルール、覚えてるわよね?」


ティナは震える手でペンを握り、鼻を突くボウルの中身を見つめた。

胃が焼けるような、脳が爆発するような、あの地獄。

だが、今のティナの瞳には、かつての「雛」のような怯えはなかった。


「……シオンさん。これ、やっぱり最悪の味です」


ティナはボウルを掴むと、一気に喉へ流し込んだ。

強烈な粘り気と生臭さが喉を蹂躙し、同時にシオンが突きつける難解な戦術図が視界を埋め尽くす。

肉体を休めているからこそ、その「物理的な刺激」が、かつてない鮮明さでティナの神経系を焼き直していく。


「いいわね、その顔。……脳を太らせ、細胞の一つ一つに『勝ち方』を刻みなさい。あんたが立ち上がった時、コウタさんが腰を抜かすような『知性を持つ怪物』にしてあげるわ」


シオンの笑い声が、静かな部屋に響く。

それは、かつての地獄を自分たちの武器へと書き換える、残酷で、知的なリベンジの始まりだった。




約束のカフェにて

 

リハビリ期間の最終日。

「完全な治療」によって、ティナの肉体からはかつての贅肉が消え、しなやかで鋼のような躍動感が戻っていた。

だが、その表情は「知的な地獄」に脳を焼かれ、虚空を見つめたままピクリとも動かない。

一方のシオンも、ティナを怪物に仕上げるための過酷な分析と自らの鍛錬により、極限までやつれ、テーブルに突っ伏していた。


「……ティナ。ここ、あんたが……快気祝いに行きたいって、言ってた……カフェ、よ」


シオンが枯れ果てた声で絞り出す。

かつて二人が「いつか普通の女の子に戻れたら」と夢見た、お洒落なパンケーキが有名な店。

しかし、運ばれてきた華やかな皿を前にしても、二人の間に漂うのは、戦場のような殺伐とした静寂だけだった。


「……シオンさん。……パンケーキの断面が、……選手の筋繊維の断裂図にしか、見えません……」


ティナの瞳は、焦点が合わないままパンケーキを凝視している。

脳に詰め込まれた膨大な物理法則が、日常のあらゆる光景を「格闘理論」へと強制変換させていた。


「……いいわ。……それが、私の……シゴキの成果。……脳が、……格闘技という猛毒に、完全に侵された証拠よ……」


シオンは指一本動かす気力もなく、力なく笑った。

彼女の頬はこけ、目元には深い隈が刻まれている。

ティナを追い込むために、彼女自身もまた、己の命を削ってこの「教科書」を作り上げたのだ。


「……約束、でしたもんね。……二人で、……ここに来るの」


ティナは震える手でフォークを持ち、パンケーキを口に運んだ。

かつては「幸福」そのものだった甘み。

だが今の彼女にとっては、それは単なる「次なる地獄の稽古のための、効率的な糖分摂取」に過ぎない。


「……美味しいです。……脳の、……オーバーヒートが、少しだけ、冷めるみたい……」


ティナの目から、一筋の涙がこぼれ、皿に落ちた。

完全な肉体と、汚染された脳。

失われた「普通の女の子」の時間と、手に入れてしまった「最強」への片鱗。


「……くたばってる暇、……ないわよ。……明日からは、……いよいよ、……実戦なんだから」


シオンがテーブルの上でティナの手に、自らの震える手を重ねた。

それは、友情や絆という生温かい言葉では言い表せない。

同じ地獄を共有し、共依存の果てに「怪物」になることを選んだ二人だけの、血の契約だった。


「……はい。……シオンさん。……鼻を明かして、……今度こそ、……地獄を終わらせましょう」


お洒落なBGMが流れる店内で、ボロボロの二人は、周囲の客が引くほどの異様な熱気を発しながら、甘いパンケーキを咀嚼し続けた。


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