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静かなる再編
白い診察室。
壁に掲げられたレントゲン写真は、ティナの肉体に刻まれた「自壊の記録」を無機質に暴き出していた。
老医師は、関節に走る微細な亀裂をペンでなぞり、沈痛な声を出す。
「……いいかい、君を指導してきた人間は狂っている。これは強化ではない。一生、後遺症と痛みを引きずって生きるための呪いだ」
「無理」をすること、壊れるまで走ることこそが、コウタの地獄における唯一の正解だった。
だが、そのテンプレートが、医学という客観的な光の下では単なる「ゴミ」として切り捨てられる。
「今ここで無理を重ねれば、君の選手生命はあと数戦で尽きる。……完全に治しなさい。一ミリの妥協もなく、骨の髄まで元通りに。それができないなら、今すぐ引退しなさい」
ティナは、自分の膝をじっと見つめた。
今すぐにでも立ち上がり、サンドバッグを叩き壊したいという中毒的な焦燥感が、喉元までせり上がってくる。
だが、彼女はゆっくりと息を吐き、その熱を力ずくで飲み込んだ。
「……わかりました。完全に、治します。後遺症も、痛みも、全部消えるまで」
それは、コウタに命じられたどんな猛特訓よりも過酷な、「忍耐」という名の覚悟の始まりだった。
診察室を出た廊下で、聞き覚えのある鋭い足音が響く。
ライカだ。
彼女は以前よりもさらに痩せこけ、瞳には「地獄の住人」特有の、追い詰められた光を宿していた。
「……完治? 笑わせないでよ、ティナ」
ライカの声が、無機質な廊下に突き刺さる。
彼女はティナの包帯の取れた脚を、憎しみのこもった目で見下した。
「あんたがそうやって『お医者様』の言うことを聞いてる間に、d-tubeのランキングは塗り替えられてる。あんたの居場所なんて、もうどこにも残ってない。戻ってきた時には、誰もあんたの顔なんて覚えてないわよ」
焦燥を煽り、再び泥沼へ引き戻そうとする言葉。
かつてのティナなら、その恐怖に耐えきれず、医者の制止を振り切って戦場へ駆け戻っていただろう。
だが、今のティナは、ライカの肩越しに窓の外の空を見つめていた。
「居場所なら、私が作るわ。……かつての私が見たこともないような、最高の体でね」
ティナは、掴みかかろうとするライカの手を、無駄のない動きで静かに払った。
医師に指示された通りの、正しい姿勢を保ったまま。
「ライカ。あんた、まだそんなに急いで走ってるの? ……私には、もうそのスピードは必要ない」
焦りに焼かれるライカを残し、ティナは一歩、一歩、地面の感触を確かめるように歩き出す。
それは「壊れるまで走る家畜」から、「自分を運用する人間」へと変わるための、静かなる行進だった。
:王者の資質
ライカの病室は、消毒の匂いと、行き場のない焦燥で満ちていた。
ベッドの上のライカは、痩せ細った腕を震わせ、点滴のチューブを引きちぎらんばかりに睨んでいる。
そこへ、足音もなくコウタが現れた。
「……コウタさん、私、まだやれます! すぐに練習に……!」
「黙れッ!!」
コウタの怒号が、病室の窓ガラスを震わせた。
彼はベッドに縋り付くライカの腕を無造作に振り払い、その胸ぐらを掴み上げて床に叩き伏せた。
点滴のスタンドが倒れ、耳障りな金属音が響く。
「勝つのも、無理をするのも、頂点を目指すのも、あいつは全部持っている! だが、あいつは『止まる』ことを選んだ! 俺に言われる前にな!」
コウタは這いつくばるライカを見下ろし、獲物を仕留める獣のような眼光で吠えた。
昭和の地獄を生き抜いた男の、剥き出しの哲学が病室を支配する。
「復唱しろッ!!」
「……っ、ひっ……」
「言えッ! 『人は、選択することによってのみ、獣と一線を画す。選ばぬ者は、家畜なり』!!」
ライカは恐怖に震え、血の混じった唾液を吐き捨てながら、絞り出すように声を上げた。
「……人は……選択することによってのみ……獣と一線を画す……。選ばぬ者は……家畜なり……」
床に這いつくばったまま、ライカは血を吐くように、コウタの教えをなぞる。
だが、その言葉の端々から、彼女自身の内側に眠る「毒」が漏れ出していた。
「責任とは……他者への言い訳ではない……。自己への……絶対的な宣告なり……! 私は……何者にも依存せず……ただ一人の、人間として……この地獄に立つことを、選ぶ……!!」
ライカの瞳に、宿ってはいけない色の火が灯る。
それはコウタの「合理」を焼き尽くす、純粋で狂気的な熱狂。
「……だから、選ぶ。この『痛み』だけが、私の命だ! ……世界なんて、どうだっていい。この熱だけが、私を人間にするんだ! ……止まるな。……灰色の闇には、……二度と、戻らない……っ!」
ライカの絶叫に近い独白が、病室の静寂を切り裂いた。
コウタはその言葉を聞き、一瞬、目を見開く。
かつて自分が育て、そして壊していった数多の「志半ばの亡霊たち」が、ライカの背後に重なった。
「ライカあああああああッ!!」
コウタの咆哮が、彼女の意識を現実に繋ぎ止める。
彼はライカの胸ぐらを掴み、その顔を至近距離で覗き込んだ。
そこにあるのは、師としての冷徹な「宣告」だった。
「貴様は俺の理論に自分のみちを見いだした! だが、同じ理念をもつものはすべて、志半ばで砕け散った! おのれを特別と思うなッ!!」
コウタの手が震えていた。
それは怒りではなく、かつて自分が到達できなかった「壁」に対する、震え。
「それは、俺の限界だ……! 俺はそこで、あいつらを殺してきたッ!!」
コウタはライカを力任せに抱き寄せ、その耳元で、魂を削るような声を絞り出す。
「……ライカ! お前はそれを超えてみせろッ!! いまは休めッ! 骨を繋ぎ、血を煮え立たせろッ! 貴様が俺の限界を食い破るその日まで、この私は地獄の底で待ってやるッ!!」
コウタはライカをベッドへ突き放し、一度も振り返らずに病室を去った。
残されたライカは、痛む肉体の中で、今までで最も熱く、最も静かな「火」が燃え上がるのを感じていた。
あまりの爆音に、ライカの肩が跳ねるように強張った。
コウタは数歩で距離を詰めると、床に這いつくばるライカの首根っこを、あの日の軽トラの荷台でティナを掴んだ時と同じ、無骨な手で鷲掴みにした。
「泣いて済むなら昭和に置いてきたッ! 絶望してる暇があったら、その残った目で見ろッ! 俺は、まだここを動いちゃいないぞッ!!」
コウタはライカを無理やり引き寄せ、その至近距離から、火を吹くような眼光で言い放った。
「あいつは自分で止まった! だが、貴様は自分で止まれないッ! ならば俺が止めてやるッ! 貴様のその狂ったエンジンを切れるのは、世界で俺一人だッ!!」
コウタの手が、ライカの震える頭を乱暴に、だが確実にその胸へと押し付けた。
「いいかッ! いまは休めッ!!」
それは、これまで一度も口にしたことのない、最も重い命令だった。
「眠れッ! 骨を繋げ、血を肉に変えろッ! 貴様を再び地獄へ引きずり戻す時まで、この俺が『待つ』と言っているんだッ!! 貴様を家畜のまま終わらせはしないッ!!」
コウタの荒い呼吸だけが、静まり返った病室に響く。
ライカは、その硬い胸板に顔を埋めたまま、声を上げずに泣き続けた。
自分を縛っていた鎖が解かれた感覚と、それ以上に重い「師の執念」が、冷え切った彼女の肉体に火を灯した。
「……行け」
コウタは短く吐き捨てると、ライカをベッドへ放り込み、今度こそ振り返らずに病室を去った。
廊下に響く足音は、以前よりも力強く、どこか誇らしげでもあった。




