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圏外への祈り

 

アパートの、狭くて西日の差し込む部屋。

シオンは、寝たきりのティナの枕元で、古びたスマートフォンを操作していた。

画面には、何年も更新されていない「普通の女の子」たちの写真。

プリクラ、カフェのパンケーキ、そして、かつての自分が笑っている姿。


「……捨てたつもりだったわ。あいつに、こんなものは弱さだと言われて」


シオンの声は、震えていなかった。

彼女は、初期化されていたはずの連絡先の一件を、静かにタップする。


「あんたの叫びを聞いて、思い出したの。私は、格闘家バケモノになる前に、誰かと一緒に笑うのが好きなだけの、ただのガキだったってこと」


ティナは、首を動かすことさえ億劫な痛みの中で、シオンの横顔を見ていた。

シオンの指先が、送信ボタンの上で止まっている。


「しばらく、ここを空けるわ。電波の届かない、私の『過去』へ行ってくる。あいつがゴミだと切り捨てた、私の本当の名前を呼んでくれる人たちに、会いに行く」


それは、コウタの施設から逃げ出すことではない。

コウタの定義した「シオン」という偶像を殺し、一人の人間に戻るための、孤独な戦争だ。

シオンは、ティナの枕元にメモを置いた。

そこには、彼女がかつて使っていた、もう誰も知らない本名の名字が記されていた。


「ティナ。……あんたも、しばらくは電波を切りなさい。あいつの影が追ってこれない場所で、あんた自身の『正解』を、その身体に刻むのよ」


シオンは立ち上がり、ドアへと向かった。

一度だけ振り返り、彼女は少しだけ不器用な、でも本物の微笑みを浮かべた。


「次は、スマホの画面越しじゃなくて、本物のカフェで会いましょう。……奢るわよ、私が『普通』に稼いだ金で」


ドアが閉まる。

ティナのスマホに、一通の通知が届いた。

シオンからの、最後のアドレス共有。

その直後、シオンのアイコンは「退出済み」へと変わった。

静まり返った部屋で、ティナは窓の外を見つめる。

シオンが向かった空は、施設のある山奥とは逆の、眩しいほどに普通の街へと続いていた。



 

空白の熱

シオンが去ったあとの部屋は、耳が痛くなるほど静かだった。

西日が畳を焼き、埃がゆっくりと光の中を踊っている。

ティナは天井の染みを眺めながら、自分の呼吸の音だけを聴いていた。


(……そういえば、ずっと走ってた)


思い返せば、あの日。

コウタに拾われ、軽トラの荷台に放り込まれたあの日から。

彼女の人生には、一秒の「空白」もなかった。

飢え。

恐怖。

規律。

そして、勝たなければ殺されるという強迫観念。

常に誰かの視線に晒され、誰かの期待を背負い、誰かの正解を追い求めて。

全力で駆け抜けていなければ、地獄の底に飲み込まれると信じて疑わなかった。


(止まるのが、怖かったんだ……)


今、全身を苛む痛みは、無理やり足を止めさせられた代償だ。

だが、不思議と心は凪いでいた。

誰の指示も聞こえない。

スマホの通知も、d-tubeの罵声も、コウタの冷徹な分析も、今はここには届かない。

ティナはゆっくりと、動く方の指先を畳に這わせた。

イグサの、少しざらついた感触。

それは、軽トラの荷台の鉄板とも、ジムのマットとも違う、世界の「端っこ」の手触りだった。


(……これが、私の時間)


コウタが与えたプログラムではなく。

ライカと奪い合った勝ち名乗りでもなく。

ただ、自分の肺が膨らみ、しぼむのを、自分のためだけに確認する時間。

ティナは、目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、あの日の軽トラの排気ガスではなく、シオンが言った「本物のカフェ」の、まだ知らない風景だった。

彼女は、初めて「明日が来るのが楽しみだ」と思った。

怪我を治すためではなく、ただ、この空白を味わうために。



:泥の中の自問

空白の時間は、穏やかな癒やしだけではなかった。

静寂が深まるほど、心の奥底に沈殿していた「泥」が、ぶくぶくと泡を立てて浮上してくる。

それは、コウタに出会う前。

何者でもなく、何一つ成し遂げず、ただ部屋の隅で時間を腐らせていたニート時代の自分。


(……なんで、あんなに無駄にしたんだろう)


一度「全力で走る」ことを知ってしまった今の肉体にとって、あの自堕落な日々は耐え難い汚点だった。

昼過ぎに起き、スマホを眺め、何に怯えるでもなく、ただ「明日」という責任を先送りにしていた。

今のこの痛み、この筋肉、この意志を、もしあの時の自分が持っていたら。

もっと早く、もっと必死に走り始めていたら。


(……今頃、私はもっと違う場所にいたはずなのに)


「もっと頑張れたはずだ」という後悔が、鋭いナイフとなって動けない今の自分を切り刻む。

コウタに「境界」を教えられ、命を削るような努力を強制されたからこそ、今の自分がある。

そう思うたびに、過去の自分がひどく醜く、惨めなものに思えてくる。

あの、何もしなかった空白の数年間。

もしその時間を全て修行に充てていたら、ライカに負けることも、こんなところで寝込むこともなかったのではないか。

ティナは、動かない右拳を強く握りしめようとした。

激痛が走る。

その痛みさえも、過去の自分への罰のように感じられた。

地獄を知ってしまったからこそ、地獄にいなかった自分を許せない。

真っ白な天井が、まるで当時の自分の、空っぽな人生を映し出すスクリーンのように見えた。






 


:帰る場所の熱

翌日お見舞いで父と母が立っていた。


二人は、ベッドに横たわり包帯に巻かれたティナを見て、一瞬だけ息を呑んだ。

だが、その瞳に宿ったのは、深い慈しみだった。


「……惜しかったな、ティナ」


父が、掠れた声で言った。

その一言に、ティナの思考が停止する。

絶対的な勝敗。

コウタの地獄では、「惜しい」という言葉は敗者の言い訳であり、無価値なゴミだった。


「いい試合だったよ。本当によく頑張ったね」


母が枕元に座り、ティナの痣だらけの手に、自分の手を重ねた。


彼らは、ティナが怪物になったことを嘆かなかった。

ただ、一人の娘が、必死に生きて戦ったことを、そのまま受け入れた。


「ティナ。……いつでも、帰っておいで。お前の部屋は、あの時のままにしてあるから」


父の言葉は、コウタが奪い去った「逃げ道」の再提示だった。

逃げ場がある。

負けても、帰るところがある。

それは、コウタの理論では「覚悟を鈍らせる毒」でしかない。

だが、今のティナには分かった。

帰る場所があるからこそ、自分の意志で「ここに留まる」ことを選べるのだ。

逃げられないから戦う「家畜」ではなく、戻れる場所を背にして、自ら進む「人間」として。


(ああ……。これが、私を人間にしてくれるんだ)


視界が、急激に滲む。

過去の自堕落な自分も。

後悔に焼かれた今の自分も。

その全てを、両親の「惜しかった」という無責任な、あまりに優しい言葉が包み込んでいく。

ティナは母の手を、震える指先で握り返した。

それは、コウタには決して見せない、弱くて、正しくて、美しい、人間としての拒絶と抱擁だった。



 

「……ありがとう。お父さん、お母さん」


真っ白な天井が、今はもう、空っぽなスクリーンには見えなかった。

窓の外から、夕暮れの子供たちの声が聞こえてくる。

ティナは深い息を吐き、初めて「明日」という時間を、自分のものとして受け入れた。


:約束の熱

母の手の温もりに包まれながら、ティナはゆっくりと、だが確かな力でその手を握り返した。

涙で濡れた頬を枕に押し付け、鼻をすする。

一時の感傷は、彼女の心に溜まっていた後悔や自己嫌悪という「泥」を洗い流し、代わりに折れない一本の「芯」だけを残していた。

ティナは顔を上げ、父と母の目を真っ直ぐに見つめた。


「……お父さん、お母さん。聞いて」


その声には、もう震えはなかった。

弱さを曝け出し、不完全な自分を許されたからこそ、その奥底から本物の闘争心が湧き上がってくる。

コウタに命じられた勝利ではない。

家畜として生き延びるための勝利でもない。


「今回は、負けちゃった。……でも、次は絶対に勝つから」


両親が、驚いたように目を見開く。

彼らは、娘が格闘技から離れることを望んでいたのかもしれない。

だが、今のティナの瞳に宿っているのは、何者にも濁らせることのできない、純粋な「意志」の輝きだった。


「誰のためでも、何かのためでもない。私が、私として勝って……あんたたちの娘はこんなに強いんだって、証明したいの」


ティナは、包帯に巻かれた拳を胸に当てた。


「だから……また、応援して。……次こそ、勝つ姿を見せるから!」


明るく、凛とした叫び。

それは地獄の底で響いていた悲鳴とは違う、未来を切り拓くための咆哮だった。

父は少しだけ戸惑ったように眉を下げたが、やがて、覚悟を決めたように力強く頷いた。

母は泣き笑いの顔で、ティナの額を優しく撫でる。


「ええ……。応援してるわよ、ティナ」


部屋を満たしていた焦燥感は、今はもうない。

「帰る場所」があるから、迷わずに進める。

ティナは窓の外、広がる夜の静寂を見つめた。

そこにはもう、コウタの影に怯える自分はいなかった。


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