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検品終了
判定のコールが鳴り響く。
会場の熱狂は、もはやティナの耳には届かない。
視線の先には、ただ一人。
救護室の冷たいベンチで、彼女は「その男」を待っていた。
かつて自分を地獄から引きずり出した男。
自分に「境界」を教え、呪いを与えた男。
負けた。
だが、後悔はなかった。
里芋の味を思い出し、人間として立ち止まった結果の敗北。
それを、彼にどう評価されるのか。
それだけが、今のティナを支配していた。
足音が近づく。
重く、規則正しい、軽トラのエンジンのような足音。
ドアが開く。
そこにいたのは、コウタだった。
ティナの心拍が跳ね上がる。
しかし、コウタの視線は彼女を通り過ぎた。
彼はティナを見ない。
その目は、隣のベッドで処置を受けるライカだけを見ている。
「心拍数、百二十まで落とせ。強制冷却だ」
コウタの声は、あまりに無機質だった。
勝利した愛弟子を労う色など、一欠片もない。
彼はタブレットの数値を指で弾き、医療班に淡々と指示を飛ばす。
まるで、故障した精密機械の修理立ち会いだ。
ティナは、乾いた喉を鳴らした。
「……師匠」
絞り出すような声。
コウタの動きが、一瞬だけ止まる。
彼はゆっくりと顔を上げ、ようやくティナを見た。
だが、その瞳に宿っているのは「教育者」の熱ではない。
ただの、一人の大人としての、冷徹な「確認」だった。
「卒業したはずだ。お前はもう、俺の管理下にはない」
その一言が、ティナの胸に突き刺さる。
コウタは一歩、ティナへと歩み寄った。
威圧感はない。
ただ、圧倒的な「拒絶」がそこにあった。
「お前は人間を選んだ。里芋を食い、帰る場所を作り、試合の最中に同情を見せた」
コウタがティナの瞳を覗き込む。
「それは正しい。……大人として、真っ当な生き方だ。だが、俺が作るのは『怪物』であって、『善良な市民』ではない」
ティナは言葉を失う。
コウタにとって、今の自分は「検品済みの合格品」ですらない。
「規格外として弾かれた、一般の人間」なのだ。
「俺とお前の契約は、あの倉庫で終わっている。……行け、ティナ。お前には、帰る家があるはずだ」
コウタはそれだけを告げると、再びライカの方を向いた。
彼女の腕に、強制的な沈静剤の針が刺さるのを、彼は冷たく見守っている。
ティナの存在は、もう彼の意識から完全に消去されていた。
救護室を出るティナの背中に、冷たい空気が張り付く。
廊下には、姉弟子が立っていた。
彼女もまた、何も言わなかった。
宣戦布告
背中に、コウタの視線を感じない。
そのことが、今のティナには何よりも雄弁な「答え」に聞こえた。
かつて自分をゴミのように扱い、飢えさせ、軽トラで引きずり回した男。
彼は今、自分を「一人の大人」として突き放した。
それは、これ以上教えることは何もないという、最高級の「合格通知」だ。
(……ああ、やっぱり、アンタは見てたんだ)
ティナは、自嘲気味に口角を上げた。
コウタはライカの数値に集中している。
だが、その背中が語っている。
「人間」を選んだティナは、もう彼の玩具ではないのだと。
だからこそ、彼は二度と自分を助けない。
導かない。
救わない。
ティナは、里芋の入ったタッパーを強く握りしめた。
視界が、一気に開ける。
救護室のドアノブを掴み、彼女は足を止めた。
そして、振り返ることなく、喉の奥から全ての肺活量を絞り出した。
「――おい!! クソ師匠!!」
爆音。
救護室の静寂が、ガラスのように砕け散る。
医療班の手が止まり、ライカの心電図が激しく波打った。
コウタの肩が、微かに揺れる。
ティナは、廊下に響き渡るような大声で叫び続けた。
「アンタが何を言おうと、アンタが私をどう否定しようと!!」
涙は出なかった。
あるのは、燃えるような「意志」だけだ。
「私は、この道を行く!! 里芋を食って、泥をすすって、人間としてあんたの前に立ってやる!!」
コウタは、依然として振り返らない。
だが、ティナには分かっていた。
彼は、今の言葉を「記録」した。
「見てなさい!! 次に会うときは、あんたの作った『正解』ごと、あんたを叩きのめしてやるから!!」
ティナはドアを力一杯閉めた。
バァン、と鼓膜を震わせる音が、決別の合図だった。
廊下の向こう。
ティナの足取りは、かつてなく軽かった。
里芋のタッパーは、まだ温かい。
彼女は、もう二度と「誰かの正解」を欲しがったりはしない。
救護室の中。
静寂が戻った部屋で、コウタは依然としてタブレットを見つめていた。
だが、その画面に表示されたライカの数値は、もはや彼の目には入っていない。
「……フン」
コウタの口角が、ほんの一ミリだけ、歪んだ。
それは、彼がこの更生プログラムを始めてから、初めて見せた「納得」の顔だった。
彼は、ティナに聞こえないほどの小声で、一言だけ呟いた。
「勝手にしろ。」
敗北者の名
救護室から続く、冷たく長い廊下。
ティナの前に、あの女が立っていた。
いつも通りの、隙のない立ち姿。
だが、差し出されたタッパーを持つ手は、微かに震えているように見えた。
ティナは足を止め、真っ直ぐに彼女を見据える。
「……あんたも、私を笑いに来たの?」
姉弟子は答えない。
ただ、タッパーをティナの胸元に押し付けた。
里芋の温もりが、あばら骨の奥まで染み渡る。
姉弟子は、感情の消えた瞳で、救護室のドアを見つめた。
「……私も、叫んだわ」
唐突な言葉だった。
姉弟子の声は、ひどく掠れていた。
「あいつに負けて、全てを奪われて、それでもここに残る決めた日。私もあんたみたいに、廊下に響くほどの大声であいつを呪った」
ティナの目が見開かれる。
この、完璧な「システムの一部」に見える女も、かつては自分と同じだったのか。
「でも、私はここで止まった。あいつの隣にいることで、自分の敗北を肯定し続ける道を選んだ。……私は、あいつに飼われることでしか、自分の価値を保てなかったのよ」
彼女は自嘲するように目を伏せた。
そして、初めてティナと視線を合わせる。
そこには、規律でも軽蔑でもない、一人の人間としての「渇望」があった。
「シオンよ。……それが、あいつに捨てられた、私の名前」
シオン。
初めて明かされた、彼女の名前。
「ティナ。あんたは、私があきらめた『その先』へ行きなさい」
シオンの手が、ティナの肩に置かれた。
氷のように冷たいが、そこには確かな力がこもっていた。
「あいつが壊せなかったものが、この世にあると証明して。……里芋の味を、一生忘れないで。そうすれば、あんたは一生、あいつの家畜にはならない」
シオンはそれだけを言うと、背を向けた。
彼女の歩く先には、再び「管理者の孤独」が待っている。
だが、その足取りは、先ほどまでよりも僅かに力強い。
ティナは、彼女の背中に向かって、短く、だがはっきりと答えた。
「……わかったわ、シオン。……ごちそうさま」
廊下の突き当たり、非常口の向こうに、外の光が見える。
ティナは里芋を一つ、口に放り込んだ。
喉が詰まるほど、泥臭くて、温かかった。
彼女は一度も振り返ることなく、光の中へと踏み出した。
背後で、重厚な鉄の扉が閉まる音がした。




