20
【地獄の残響】
ドゴォッ!!
ティナの渾身の右ストレートが、ライカの顎を完璧に捉えた。
脳が揺れ、視界が瞬時に白濁する。
ライカの意識は、その衝撃で一度、完全に断絶した。
「あ……」
崩れ落ちる膝。
重力に従い、ライカの身体がリングへと吸い込まれていく。
その意識の底、底の底。
そこは、彼女がずっと住んでいた、音も熱も色もない「灰色の闇」だった。
(……ああ。また、ここだ……)
何も聞こえない。
誰もいない。
自分が生きているのか死んでいるのかすら判別できない、凍てつく無の世界。
(……やだ。……戻りたく、ない……)
その瞬間。
死体同然だった彼女の脳内に、猛毒のような熱量を持った理念が、火花となって飛び散った。
「……人は、選択することによってのみ、獣と一線を画す。……選ばぬ者は、家畜なり……っ」
氷点下の滑走路。
倒れ伏し、感覚を失いかけた背中に、コウタの冷たい宣告が突き刺さる。
「家畜で終わるか、人として抗うか、今ここで選べ」
灰色の視界に、初めてドロリとした「赤」が混じった。
「……責任とは、他者への言い訳ではない。……自己への、絶対的な、宣告なり……っ!」
泥水を啜り、拳の骨をきしませながらサンドバッグを叩き続けた夜。
痛みに涙することすら禁じ、自分自身に「勝て」という死刑宣告を突きつけた。
灰色の闇が、沸き立つ血の熱に侵食されていく。
ティナは息を呑んだ。
確実に倒したはずだった。
だが、眼前の少女は、凍える闇から逃げ出すために、自分自身の魂を焼き切りながら再起動していた。
「……そこまでです、ライカ! その呪いは、もう私には届かない。私は、あなたの先へ行く……!」
ティナは叫んだ。
それはコウタの影を振り払い、母の里芋がある「日常」へ帰るための、決別の宣言。
だが、ライカの咆哮が、それを力ずくでねじ伏せた。
「……何者にも依存せず、ただ一人の人間として、この地獄に立つことを選ぶ……!!」
誰の影も追わない。
孤独な滑走路で、この「痛み」を自分だけの生きる実感として抱きしめた、あの日の誓い。
闇はもはや、燃え盛る業火のような鮮紅へと塗り替えられていた。
「……だから、選ぶ。……この『痛み』だけが、私の命だ!」
切り裂かれた肌の熱さ、砕かれた骨の軋み。
それだけが、この空っぽな自分を「人間」として繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「……世界なんて、どうだっていい。……この熱だけが、私を人間にするんだ!」
絶望しかなかった日々に、格闘という火が灯った。
激痛の中で初めて、自分の鼓動が「速い」と感じられた。
視界を埋め尽くしていた灰色の霧が、噴き出す鮮血の色に完全に染まりきった。
「……止まるな。……灰色の闇には、……二度と、戻らない……っ!」
咆哮。
ライカの身体が、弾かれたように前へ出た。
油断、あるいは同情。
ティナのわずかな心の隙間に、ライカの最後の一撃が、吸い込まれるようにめり込んだ。
ドシュッ……!!
鳩尾を、鉄の杭で貫かれたような衝撃。
ティナの視界が火花を散らし、膝が、脳が、意識が、同時に崩れ落ちた。
「あ……が……」
ティナは床に沈み、深い闇へと落ちた。
だが、ライカもまた、その一撃を放った姿勢のまま、全ての機能を停止させた。
拳を突き出し、血塗れの顔を上げたまま。
彼女の意識はすでにここにはなく、魂は枯れ果てている。
それでも彼女は、膝を折ることだけは、自らのプライドにかけて拒絶した。
静まり返った会場の中に、審判の戦慄を含んだカウントが響く。
判定、ライカ。
意識を失い、魂が抜け落ちた器となってもなお、最後まで「闇」を拒み、前進の形を維持し続けた少女の、執念の勝利。




