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:昭和の栄養補給
地獄の測定から一夜明け、ティナは全身の激痛で目を覚ました。
寝床はジムの隅に敷かれた、薄っぺらな煎餅布団だ。
「……動けない、指一本動かせないよ……」
節々の痛みと、それ以上に猛烈な空腹がティナを襲う。
昨日は結局、水以外何も口にしていない。
そこへ、ドカドカと重量感のある足音が近づいてきた。
「いつまで寝てやがる。メシだ、さっさと起きろ」
コウタが差し出したのは、銀色の大きなボウルだった。
中には、ドロリとした正体不明の液体がなみなみと注がれている。
「……何これ。泥水? 毒?」
「特製プロテインだ。生卵五個、納豆、煮干し粉、それに企業秘密の精根を混ぜ込んである」
ツンと鼻を突く独特の臭いに、ティナの顔が引き攣った。
令和の時代、粉末をシェイカーで振るスマートな飲み物ではない。
昭和の格闘家が「強くなる」と信じて混ぜ合わせた、狂気の飲み物だ。
「無理、絶対無理! 衛生的にもアウトだよこれ!」
「ガタガタ抜かすな。食わなきゃ強くなれねえ、強くなれなきゃまたトラックの後ろだ」
コウタがティナの顎を強引に掴み、ボウルを口元へ押し当てる。
「ほら、飲み込め! 喉に流し込め!」
「んぐっ、んんんーーっ!?」
強烈な粘り気と生臭さが、ティナの喉を蹂躙していく。
吐き出そうにも、コウタの太い指が口を塞いで逃がさない。
涙目で無理やり全てを飲み干すと、腹の底から焼け付くような熱さがこみ上げてきた。
「……げほっ、最悪……味覚が死んだ……」
「食うのも稽古だ!」
コウタの声が、ジムのボロい食堂に響き渡った。
テーブルの上には、視聴者からの差し入れだという高級な和牛、そしてコウタが用意した山盛りの白米と、どんぶり一杯の生卵が並んでいる。
「わあ、お肉……! 食べていいの!?」
一瞬だけ目を輝かせたティナだったが、コウタの冷徹な眼光にすぐさま凍り付いた。
「ああ。だが、一粒も残すな。それと、水は一切禁止だ。米と肉だけで腹を満たせ」
ティナは夢中で肉を頬張った。
脂の乗った肉が舌の上でとろけ、空っぽの胃袋に幸福が染み渡る。
だが、三分の一を過ぎたあたりで、異変が起きた。
肉の脂が、急激に重く胃にのしかかる。
「……うっ、もう、お腹いっぱい……苦しい……」
「箸を止めるな。お前の体はまだディノの『雛』だ。限界を超えて詰め込め、細胞を無理やりデカくしろ!」
コウタはティナの背後に回り、逃げ場を塞ぐように仁王立ちした。
ティナは涙を浮かべながら、もはや味のしなくなった米を口に押し込む。
喉元まで食べ物が詰まり、一呼吸置くたびにせり上がってくる感覚。
「……う、んぐっ……もう、入らない……吐きそう……っ」
「吐いたらその分、また最初からだ。飲み込め、根性で胃袋を広げろ!」
「……んんーーっ!!」
限界をとうに超えている。
胃が裂けそうな痛みに悶絶しながらも、コウタの放つ圧倒的な威圧感――「食わなければ殺される」という恐怖が、ティナの咀嚼を止めさせない。
最後の一粒を飲み干した瞬間、ティナは椅子から転げ落ち、床でのたうち回った。
パンパンに膨れ上がった腹が、内側から激しく脈打っている。
「……はぁ、はぁ……死ぬ、本当にお腹が裂ける……」
「いいツラだ。その膨らみが明日の血肉になる。……休むな、そのままスクワットだ。重くなった体で、重力を叩き潰せ!」
コウタは容赦なく、のたうつティナの襟首を掴み上げた。
極限まで詰め込まれたエネルギーが、逃げ場を求めてティナの血管を激しく駆け巡り始める。
「メシトレ」を終えたティナの体からは、尋常ではない熱気が立ち上っていた。
限界を超えて詰め込まれたエネルギーが、ディノ血統の特殊な代謝によって、強引に「戦うための肉」へと変換されていく。
「……うう、お腹が熱い……体が、破裂しそう……っ」
「ガタガタ抜かすな。その熱を外に逃がしてえなら、さっさと動け」
コウタはティナのパンパンに膨れた腹に、遠慮のない蹴りを一発入れた。
「……うぎゃっ!? ちょっ、死ぬ! 胃が飛び出るってば!」
激痛と衝撃に突き動かされ、ティナは逃げるようにジムを飛び出し、重い足取りで走り始めた。
一歩踏み出すごとに、地面がミシミシと音を立てる。
これまでの自堕落な「脂肪」が、コウタの理不尽なまでの熱量によって、禍々しい「質量」へと変貌を遂げようとしていた。
【d-tube:格闘マニアの反応】
動画タイトル:【地獄】落ち目ジムのメシトレが狂気すぎる件【ティナ】
1. 匿名ユーザー:
あの量、人間が食う量じゃないだろ……。
見てるだけで胃もたれするわ。
2. 格闘マニアX:
いや、注目すべきはその後だよ。
普通なら動けないはずなのに、あのデブ娘、足取りが明らかに力強くなってる。
一歩の踏み込みでアスファルトにヒビ入ってねえか?
3. モンスター専門家:
ディノ血統の特徴だね。
極限の摂取と極限の負荷を同時にかけることで、細胞を「戦闘モード」に強制進化させてる。
昭和のやり方だけど、あの娘のポテンシャルなら耐えきれるかもしれない。
4. 炎上ウォッチャー:
このトレーナー、やっぱりあの「人殺しのコウタ」だ。
当時もこれで何人も再起不能にしたって噂だけど、今の時代にこれ流して大丈夫か?
5. 運営事務局:
(※不適切なコンテンツとしてフラグが立てられましたが、圧倒的な視聴回数により保留中)
ティナの「進化」は、ネットという巨大な覗き窓を通じて、世界中に晒され始めています。
「あたまじゃねえ、身体に聞けと言ってるんだ!」
コウタの怒声が、深夜のジムに木霊した。
煌々と照らされた裸電球の下、ティナはフラフラになりながら、コウタが並べた「昭和の戦術図」の前に立たされていた。
「……うぅ、もう頭に入らないよ……。この図解、何十年前のやつ? 文字が掠れて読めないもん……」
「能書きはどうでもいい! 相手の呼吸、肩の動き、重心のブレ……それを脳で考える前に、お前の肉が反応するように叩き込むんだ!」
コウタは図面をぐしゃぐしゃに丸めると、ティナの喉元に強烈な正拳突きを寸止めした。
「ひっ!?」
「今、お前は『あ、パンチだ』と考えてから動こうとしたな。それでは遅い。ディノの血が流れてるなら、殺気を感じた瞬間にカウンターが放たれてなきゃならねえ」
そこから、狂気の「詰め込み教育」が始まった。
一睡も許されないまま、コウタが放つ不規則な攻撃を、ティナはただひたすらに避け、あるいは受ける。
「覚えるな、刻め!」という言葉と共に、コウタの拳がティナの肉を打ち据えるたび、彼女の身体に「戦いの記憶」が痛烈に刻印されていく。
意識が朦朧とする中で、ティナの動きが少しずつ変化し始めた。
重い脂肪の揺れが、いつしか攻撃をいなすための「クッション」と「バネ」に変貌していく。
「……はぁ、はぁ……身体が、勝手に……」
「そうだ。思考を捨てろ。お前の贅肉は、全部センサーだと思え!」
夜が明ける頃、ティナの瞳には、以前のような怯えだけではない、獣のような鋭い光が宿り始めていた。
「下を見るな! 前を見ろ、前を!」
コウタの怒声が、ジムの周囲を取り囲む急勾配の坂道に響き渡った。
ティナの胴体には、昨日までトラックを引いていたあの麻縄が、今度は巨大な古タイヤ三本に繋がれている。
その状態で命じられたのは、昭和の遺物――「ウサギ跳び」だった。
「……う、ううう! 膝が、膝が笑ってるよぉ……! これ、絶対体に悪いって、ネットで見たもん!」
「ネットが何だ! お前のそのだらしない下半身を支えられるのは、理屈じゃねえ、ぶっ壊れる寸前の根性だけだ!」
ティナは両手を頭の後ろで組み、パンパンに張った太ももを震わせながら、一歩、また一歩と跳ねる。
一回跳ぶごとに、タイヤの摩擦抵抗と、自らの百キロを超える自重が容赦なく膝関節を削りに来る。
肺は焼けつくように熱く、喉の奥からは血の味がした。
「ハァッ、ハァッ……もう、無理……足が動かない……っ」
「止まったら後ろから蹴り飛ばすぞ! ディノの脚力は、大地を砕くためにあるんだ! 地面を蹴れ! 地球を突き放せ!」
日は高く昇り、そして沈み始めた。
ティナの意識はとうに朦朧としている。
もはや、コウタの罵倒さえも遠くの雑音のように聞こえる。
だが、奇妙なことが起きた。
限界をとうに超え、感覚のなくなった脚が、機械的なリズムを刻み始めたのだ。
一跳びごとに、地面に深々とティナの足跡が刻まれる。
泥と汗にまみれたその姿は、もはや醜いデブ娘のそれではない。
獲物を追い詰めるために進化を続ける、古代の「獣」の胎動だった。
夜の帳が下りる頃、ティナはついに頂上へと到達し、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
【d-tube:近隣住民の盗撮スレッドより】
動画タイトル:【地獄】丸一日ウサギ跳びさせられてる女の子、ついに地面を破壊し始める。
1. 筋トレマニア:
待て待て待て。ウサギ跳びって今じゃ禁じ手だぞ?
でも、あの娘のディノ血統なら、この負荷で骨密度が異常進化してる可能性がある。
2. 匿名:
さっき見てきたけど、坂道の地面、ティナが跳ねたところが陥没してたぞ……。
人間がやっていいトレーニングじゃない。
3. モンスター・スカウト:
コウタの狙いが分かってきたな。
あえて非効率な負荷をかけ続けることで、ティナの「生存本能」に火をつけてるんだ。
「このままじゃ壊れる」と判断した遺伝子が、強制的に肉体を作り変えてる。
4. 炎上大好き:
これ、通報したところでコウタに返り討ちにされるだけだろ(笑)
見てろよ、来週の公式戦、とんでもない化け物がデビューするぞ。
5. 運営事務局:
(※このコンテンツは「過激なトレーニング」として制限されていますが、再生数は止まりません)
丸一日のウサギ跳びを終え、ティナの下半身は「重戦車の脚」へと変貌しました。
ついに、その力を解き放つ「実戦」の舞台が用意されます。
スポットライトが、残酷なほど眩しくティナを照らし出す。
公式戦「Fランク大会」。
対戦相手は、細身ながら鋼のような筋肉を纏ったピクシー系統の少女だった。
結果は、惨敗。
ティナ自慢の重戦車のような突進は、軽やかなステップでいなされ、死角から無数の打撃を浴びせられた。
リングに沈み、鼻血と涙で顔を汚したティナの視界に、コウタの太い脚が映る。
「……う、うう……痛いよ、コウタさん……あんなの、勝てるわけない……っ」
這いつくばりながら助けを求めるティナに、コウタがかけたのは慈悲の言葉ではなかった。
「当たり前だ、馬鹿野郎」
その声は、これまでで最も冷たく、氷のようにティナの心に刺さった。
「……え?」
「相手を見ろ。あいつの拳のタコ、あの研ぎ澄まされた集中力。お前がネットで油売って、菓子食って寝てた時、あいつはずっと血の滲むような稽古を続けてたんだ」
コウタはティナの襟首を掴み、無理やり顔を上げさせた。
勝ち名乗りを上げる対戦相手の姿が、ティナの瞳に焼き付けられる。
「三年間、お前がドブに捨ててきた時間はなぁ、たかだか数週間の地獄じゃ取り戻せねえんだよ」
コウタの拳が、ティナのすぐ横のキャンバスを激しく叩いた。
鈍い音が会場に響き、ティナの身体がビクリと跳ねる。
「三年間、毎日死ぬ気で積み上げてきた奴に、昨日今日やる気を出しただけのデブが勝てるわけねえだろうが! 勝負を、努力を、舐めるんじゃねえぞ!」
「……あ……っ……」
恐怖とは違う、もっと暗く、重い感情がティナの胸を支配した。
「自分は特別な才能があるから、いつか本気を出せば勝てる」
そんな無意識の傲慢さが、コウタの言葉によって完膚なきまでに叩き潰された。
「悔しいか。死にたいほど惨めか。……だったら、その痛みを忘れるな。それが『戦う』ってことだ」
コウタはティナを突き放し、背を向けて花道を歩き出した。
泣きじゃくるティナは、ボロボロになった身体を引きずりながら、その絶対的な背中を追うしかなかった。




