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「……お姉様。あの子……ライカを倒す道筋、掴めてきました」
エデンの重厚な自動ドアが開く直前、ティナは足を止め、背後に立つ姉弟子にそう告げた。
かつての怯えきった、何かに縋り付くような震えはもうない。
ソフィアの冷徹な知性と、コウタの理不尽な肉体。
相反する二つの地獄を自分の中で無理やり縫い合わせた、歪だが強固な自信がその背中に宿っていた。
「……そう。なら、その『道筋』がただの幻想じゃないことを、リングで証明しなさい」
姉弟子の突き放すような言葉を背に、ティナは夜の滑走路へと戻った。
そこに待っていたのは、吐き気がするほど見慣れた、錆びた軽トラの排気音。
そして、その音を切り裂いて走る、一筋の「銀色の閃光」だった。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
ライカの走りは、芸術的ですらあった。
時速八十キロを超える猛スピードで蛇行する軽トラの背後。
泥が跳ね、石礫が飛ぶ過酷な環境下で、彼女の銀髪は汚れ一つ知らないかのように夜風に舞っている。
呼吸は深く、一定。
無駄な力みなどどこにもなく、まるで重力から解放されたかのような足取り。
キィィィィッ!!
急停車した軽トラから、コウタが苛立ちを隠さず降りてくる。
彼はライカの足元に、手加減なしの冷水を浴びせかけた。
だが、ライカは表情一つ変えず、濡れた銀髪をかき上げることさえしない。
「……コウタさん。今の旋回、左への重心移動が0.2秒遅れました。次はもっと鋭く曲がってください。私が『正解』を出すために」
「……フン。言うようになったじゃねえか、このガキが」
冷徹。
完璧。
根性という泥臭い熱量すら不要だと言わんばかりの、無機質な強さ。
ライカにとって、コウタの地獄は耐えるものではなく、ただ「こなすべき数式」に過ぎなかった。
特訓を終え、汗一つ乱さず歩いてくるライカと、闇の中から現れたティナの視線がぶつかる。
ライカは一瞬だけティナを見つめたが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「……お帰り、ティナ。無駄な遠回りをして、少しは賢くなれたかしら」
透き通るような声には、嘲笑すら含まれていない。
ただ、絶対的な格差を当然のものとして受け入れている、強者の無関心。
ティナは、自身の腫れ上がった拳を強く握りしめ、氷のように冷たい姉弟子の背中を見据えた。
カーン、と甲高いゴングが鳴り響いた。
地下アリーナを埋め尽くした観客の怒号が、一瞬で静まり返る。
リングの中央、銀髪を冷たく光らせたライカが、一切の構えを解いたまま静かに歩み出してきた。
「……終わりよ。0.5秒で」
ライカの声が響くと同時に、世界が加速した。
予備動作のない、あまりにも「正解」すぎる踏み込み。
ティナの視界に、ライカの鋭い左ジャブが無数に咲き乱れる。
ド、ド、ドカッ!!
「が……はっ……!!」
避ける間もない。
ライカの打撃は、コウタの教えた急所をミリ単位の狂いもなく正確に抉っていく。
それは、ティナがコウタの下で死ぬほど追い求めていた「理想の暴力」そのものだった。
観客席からは「もはや公開処刑だ」と失望の声が漏れ始める。
だが、ティナの瞳は死んでいなかった。
ソフィアに叩き込まれた、冷徹な解析眼が、脳内で火花を散らす。
打撃の衝撃、骨の軋み、痛みの信号……そのすべてを「データ」として処理し、目の前の怪物を解体していく。
(……確かに速い。でも、美しすぎる。……あなたの動きには、師匠の『命令』というレールしかない)
ライカが放つ、必殺の右ストレート。
コウタが「最強のフィニッシュ」として授けたはずのその軌道が、ティナの脳内では一本の、あまりにも予測しやすい「直線」として描かれた。
「……そこです!!」
ドォォォォン!!
アリーナが、地鳴りのような衝撃に包まれた。
ティナはライカの拳を、あえて自らの肉厚な左鎖骨で受け止めた。
骨が軋む音。
だが、ティナは一歩も引かず、その反動を利用して、ライカの懐へと自身の巨体を力ずくでねじり込ませる。
「なっ……!? 軌道上に、自分から……?」
初めて、ライカの氷のような表情が、驚愕に歪んだ。
効率を重視するAランクの技術なら、あり得ない選択。
だが、コウタの理不尽な耐久力を持ったティナだけが許される、肉体を盾にした「超至近距離への強襲」。
「……ここからは、私の時間です!!」
ティナの右拳が、驚愕に固まるライカの顎先を、最短距離で突き上げた。
「……あははっ! 計算が、狂っちゃったじゃない」
宙を舞い、着地したライカの口から、初めて「人間」の乾いた笑い声が漏れた。
完璧だった銀髪は乱れ、顎先からは鮮血が滴り落ちる。
だが、その瞳に宿ったのは、先ほどまでの無機質な静寂ではなく、ドロドロとした暗い熱量だった。
「演算終了。……ここからは、ただの殺し合いよ、ティナ」
ライカの佇まいが一変した。
効率も、軌道も、最短距離も。
ソフィアが説いた「Aランクの理」を嘲笑うかのように、彼女は地を這う獣のような構えを取る。
それは、コウタが夜の滑走路で、死を目前にした彼女たちにだけ見せた、呪いのような実戦の型。
ドォォォォォン!!
踏み込みの一歩で、リングのマットが爆ぜた。
ライカの連撃が、ティナのガードを内側から食い破る。
一撃一撃が、自らの筋肉を断裂させることを厭わない過剰な出力。
それは、コウタへの信仰が生み出した、自己破壊的なまでの「根性」の奔流だった。
「が……ぁぁっ!!」
ティナの脳内の解析データが、真っ赤な警告で埋め尽くされる。
(……読めない! この子の動き、合理性を捨てて……ただ『私を殺すこと』だけに特化してる!)
ライカはもう、コウタの指示を待っていない。
指示されるまでもなく、彼女の細胞一つ一つが、コウタという地獄に捧げられた供物として、独りでに最適解を叩き出していた。
ティナのソフィア流のパリングを、ライカは自身の拳の骨が砕ける衝撃ごと突き破り、ティナの脇腹へと拳をめり込ませる。
「ハァッ……ハァッ……!! 死になさいよ、ティナ! 私と一緒に、泥の中で!!」
狂ったように笑いながら、ライカの頭突きがティナの鼻腔を直撃した。
視界が真っ赤に染まる。
合理的な格闘ではない。
そこにあるのは、どちらが先に「地獄への忠誠」を証明できるかという、魂の削り合いだった。
意識が、白濁する。
ライカの、自らの骨を砕くことも厭わない狂気的な連撃。
その衝撃の合間に、ティナの脳裏には、地獄の滑走路とは正反対の「温度」が浮かんできた。
(……ああ、そうだ……。私は、帰らなきゃ)
湯気を立てる、母の作った里芋の煮物。
不格好で、泥臭くて、けれど芯まで甘い、あの温もり。
コウタの冷水にも、ソフィアの清潔な酸素にもない、ただ「生きている」ことを許してくれる味。
「……あ、あああああああ!!」
ティナの喉から、獣のような咆哮が漏れた。
恐怖でも、計算でもない。
ただ「あの場所へ帰る」という、原始的で強欲な生存本能が、麻痺した四肢に強制的な駆動信号を送る。
ドガッ!!
ライカの必殺の右を、ティナは避けることすら捨てて、顔面で受け止めた。
鼻骨が砕ける。
だが、ティナは止まらない。
そのまま肉の壁となってライカの間合いを食い破り、その腹部へ、丸太のような右拳を深々と突き刺した。
「なっ……が、はぁっ……!?」
ライカの、完璧に制御されていた呼吸が初めて完全に止まった。
ティナの攻撃は、もはやソフィアの教えた「最短の軌道」ですらない。
重戦車がすべてをなぎ倒して進むような、理不尽なまでの「生」の圧力。
ボッ、ドォォォォォン!!
ティナの連撃が、ライカの華奢な体をリングの端まで吹き飛ばす。
ライカの瞳から、ついに光が消えた。
脳震盪。
意識は、完全に闇に落ちている。
(……終わった……!)
ティナが勝利を確信し、最後の一歩を踏み出そうとした、その時。
意識を失い、白目を剥いたはずのライカの身体が、まるで目に見えない糸で吊り上げられたかのように、ガクガクと震えながら垂直に立ち上がった。




