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「……人は、選択することによってのみ、獣と一線を画す……」


無機質なエデンの中心で、ティナの唇から、ひび割れた声が零れた。

それはソフィアの合理的な計算式を、そして静寂そのものを切り裂く、泥臭い言霊だった。

身体に繋がれたセンサーの数値が、ティナの感情の昂りに合わせて不規則に跳ね上がる。


「選ばぬ者は……家畜なり……っ」


脳裏に、あの日の光景が鮮烈に蘇る。

肺が潰れそうな酸欠の中、コウタの怒号を浴びながら、血を吐く思いで叫ばされた言葉。

かつては「恐怖」の象徴でしかなかったその理念が、今、自分という存在を繋ぎ止める唯一の背骨へと変わっていく。


「責任とは、他者への言い訳ではない……。自己への、絶対的な……宣告なり……っ!」


ティナは、自らの意思で、自身の精神に刃を突き立てた。

ソフィアに「まね」を否定され、空っぽになった胃壁に、コウタの残した苛烈な教えが再び刻み込まれていく。

それは「師匠に従う」ための復唱ではない。

「私」という人間が、この地獄に自らの足で立つための、宣戦布告だった。


「私は……私は、何者にも依存せず……!」


ガシャン、とセンサーの一つが負荷に耐えかねて音を立てた。

ティナの瞳から、迷いと甘えが、猛毒となって排出されていく。

最新科学が算出した「最適解」を、彼女は自らの熱量で焼き潰した。


「ただ一人の人間として……この地獄に、立つことを……選ぶ!!」


咆哮。

エデンの最新AIが、ティナの異常な心拍数と筋出力を検知し、警告音を鳴らし始める。

だが、今のティナには、その電子音すらもコウタの怒号のように、自分を鼓舞するリズムにしか聞こえなかった。

彼女は、誰にも指示されることなく、自らの意思で拳を握りしめた。

それは、依存という名の鎖を自ら引きちぎり、ただ一人の「人間」として覚醒した瞬間の咆哮だった。



 

「……素敵な言葉ね」


静寂を取り戻したトレーニングルームに、ソフィアの乾いた声が響いた。

彼女は壁に寄りかかり、興味深げに目を細めてティナを見つめている。


「人は選択によって獣と一線を画す。……野蛮で、救いようのない精神論だけれど、そこには確かな『美学』があるわ。コウタという男、ただの粗暴な怪物かと思っていたけれど……意外と詩的なところがあるのね」


ソフィアの言葉は、以前のような冷笑を含んでいなかった。

彼女の知性は、ティナが今叫んだ言葉が、単なる暗記ではなく、彼女の魂を物理的に変容させたことを理解していた。

だが、ティナは荒い呼吸を整えながら、ソフィアを見据えたまま動かない。


「……いいえ。その先があります」


ティナの瞳は、もはや恐怖に濁ってはいなかった。

ソフィアから学んだ冷徹な視点が、コウタから与えられた熱い理念と、彼女の中で激しく混ざり合う。

ティナは、自らの血肉となった言葉に、自分自身の「意志」を付け足した。


「……『選択した地獄を……私自身の意志で、天国エデンに書き換えるまで、私は……歩みを止めない』」


それは、コウタの教えへの絶対的な依存からの脱却。

そして、ソフィアの合理的な管理への明確な反逆だった。


「師匠に与えられた地獄を、ただ耐えるのは『家畜』です。……でも、その地獄を自分の力で支配し、自分の正解に変えるのは……『人間』です」


その言葉を発した瞬間、ティナの全身から不要な「力み」が霧散した。

コウタの恐怖による過緊張もなく、ソフィアの模倣による不自然な制約もない。

ただ、純粋な殺意と合理性が同居した、静かな「熱」だけが彼女を包み込む。


「……っ」


ソフィアの眉が、かすかに動いた。

目の前に立つ怪物の気配が、一瞬にして変わった。

先ほどまで感じられた「扱いやすい重機」のような鈍重さは消え、そこには、予測不能な牙を隠し持った「一人の格闘家」が立っていた。



「……いいわ。その『書き換え』、私のデータでどこまで通用するか見せてちょうだい」


ソフィアが、初めて「指導者」の顔を捨てた。

彼女の周囲に浮かぶホログラムが、練習用の青から、実戦警戒を示す赤へと染まる。

エデンのリングは、最新の衝撃吸収システムが稼働し、かすかな唸りを上げた。


「行くわよ。……『最適解』の洗礼を受けなさい」


ソフィアの姿が、かき消えた。

最新のキネシオロジーに基づいた、一切の予備動作のない踏み込み。

次の瞬間、ティナの視界をソフィアの鋭い回し蹴りが覆う。

だが。


ドゴォッ!!


アリーナを揺らしたのは、肉と肉がぶつかる、野蛮な衝撃音だった。

ティナは避けなかった。

ソフィアの計算された一撃を、あえて自身の強靭な左肩で受け、その衝撃を利用して、最短距離の「直線」へと踏み込んだのだ。


「なっ……!? 骨を断たせて、肉を……?」


ソフィアが驚愕に目を見開く。

それはエデンのバイオメカニクスが最も忌み嫌う、非効率で自傷的な戦法。

しかし、コウタの地獄で「時速六十キロの殺意」を浴び続けてきたティナにとって、その痛みは計算の内側だった。


「……効率なんて、知りません」


ティナの拳が、ソフィアの喉元へと突き出される。

ソフィアが教えた精密な急所への軌道。

そこに、コウタが叩き込んだ「相手を粉砕するまで止まらない」という、理不尽なまでの前進の圧力が加わる。


「くっ……!」


ソフィアは紙一重で首を逸らすが、ティナの拳から放たれた衝撃波が、彼女の白銀の髪を乱暴になびかせた。

ティナの動きは、もはやソフィアのトレースではない。

昭和の泥臭い暴力と、現代の冷徹な知性が、ティナという炉の中でドロドロに溶け合い、全く新しい「殺戮の合理性」へと再構築されていた。


「……これが、私の……『選択』です!!」


ティナの右ストレートが、ソフィアの完璧なパリング(受け流し)を、その圧倒的な質量だけで強引に突き破る。

ソフィアの頬を、ティナの拳がかすめた。

一筋の赤い線が、Aランクの頂点に立つ美貌に刻まれる。


エデンのAIが「予測不能」を示す警告音を鳴り響かせた。

データの海に守られた天国で、今、一人の「人間」が、自らの地獄を力ずくで書き換えようとしていた。


ソフィアが、指先で自身の頬をなぞった。

指先についた一筋の鮮血を見つめ、彼女の瞳から一切の「温度」が消える。


「……なるほど。計算外の不純物が、私の数式を汚したわけね」


ソフィアの身体が、微かに沈み込んだ。

次の瞬間、ティナの視界は、無数の「拳の残像」によって埋め尽くされた。

それは、これまでのスパーリングとは次元が異なる、Aランクの極致。


ド、ド、ド、ドッ!!


「が、はっ……!?」


ティナの強靭な肉体が、木の葉のように翻弄される。

ソフィアの打撃は、一点の無駄もなくティナの急所――眼窩、喉仏、心窩部を正確に打ち抜いていく。

防戦一方。

意識が、白濁する。


(……速い……見えない……)


コウタの滑走路で培った野性の勘が、死の接近を告げていた。

ソフィアの知性が導き出した「死のアルゴリズム」が、ティナの四肢を確実に破壊していく。

だが、その暗闇の底で、二つの声が同時に響いた。


『走れ、死ぬぞ! 止まれば家畜だ!』


コウタの、あの理不尽なまでの怒号。


『最小で、最大の出力を。感情はノイズよ』


ソフィアの、あの冷徹なまでの理。


(……ああ、そうか)


ティナの中で、二つの教えがパズルのように噛み合った。

コウタの教えた「根性」とは、精神論ではない。

ソフィアの「合理」を実行するための、強靭な「耐震構造」そのものだったのだ。


ドカッ!


ソフィアの必殺の右ストレートが、ティナの顎を捉えようとした瞬間。

ティナは、あえて脳震盪を覚悟でその衝撃を真っ向から受け止め、噛み締めた奥歯から血を噴き出しながら――笑った。


「……見え、ました」


激痛という「ノイズ」を根性でねじ伏せ、その先に生じた、ソフィアの「完璧すぎる拍子」の隙間。

ティナは、自身の全体重を左拳に乗せた。

それはソフィアの教えた「理想的な軌道」を、コウタの教えた「殺すための出力」で無理やり押し通す、地獄と天国が交差した一撃。



「……っ、あはは! 一発、いいの貰っちゃったわね」


ソフィアの唇から、苦痛を混ぜた艶やかな笑いが零れた。

ティナの拳は、確かにソフィアの完璧な防御を貫き、その腹部へと深く沈み込んでいた。

だが、ソフィアは崩れ落ちない。

彼女は打撃の瞬間に自らの重心を微細に操作し、衝撃の大部分を物理的に「逃がして」いた。


「痛いじゃないの。……私の計算式に、これほどの『質量』は組み込んでいなかったわ」


ソフィアは一歩、二歩と軽やかに下がり、自身の腹部をさすりながら姿勢を正した。

対照的に、ティナは全身の関節から軋むような悲鳴が上がり、その場に膝をついた。

全力の一撃を放った代償。

そして、ソフィアの連撃を耐え続けた肉体の限界が、一気に押し寄せてくる。


「……あ、が……はっ……」


「無理に立たなくていいわよ。……驚いたわ。私の連撃をまともに受けて、まだ意識を保っているなんて。技術の差を、暴力的なまでの耐久力で埋めてしまうのね。……まさに、昭和の化けコウタの弟子だわ」


ソフィアは、自身の頬に走った傷を指先で拭い、それ以上構えることはしなかった。

部屋を埋め尽くしていた真っ赤なアラートが消え、再び静寂が戻ってくる。


「今日のスパーリングは、これで終了。……あなたの勝ちよ、ティナ」


「……え?」


ティナは、霞む視界の中で顔を上げた。

自分はボロボロで、ソフィアはまだ余裕を持って立っている。

客観的に見れば敗北は明白だった。


「データ上はね。でも、私のプライドには、あなたの拳が深く刻まれたわ。……まねなんてしても意味がない。あなたは、あなた自身の『地獄』を背負ったまま、ここに辿り着いた。……認めざるを得ないわね」


ソフィアが、どこからか取り出した白いタオルを、無造作にティナの頭へと投げた。

ティナはそれを手繰り寄せ、顔を埋める。

タオルの清潔な香りと、自身の流した血の匂いが混ざり合う。


(……届いた……)


Aランクの絶対的な壁。

その一部を、自分は確かに壊したのだ。

コウタに与えられた頑丈な肉体と、ソフィアから盗んだ鋭い知性。

二つの世界が交差するこの場所で、ティナは初めて、自分自身の足で立っている実感を得ていた。


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