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:同じ地獄の、その先へ

「……あ」

姉弟子に連れられ、ティナが辿り着いたのは、かつてのジム跡地よりもさらに広大な、無機質な滑走路だった。

そこで繰り広げられていたのは、吐き気がするほどの「既視感」だった。

爆音を上げて蛇行する、あの錆びだらけの軽トラ。

その後ろを、泥にまみれ、麻縄で繋がれた銀髪の少女が、時速八十キロの暴風を切り裂いて走っている。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!!」


少女……ライカの動きは、ティナが鏡を見ているかのように「正しかった」。

一歩の踏み込み、重心の移動、そして絶望的な状況下で歯を食いしばるその表情まで。

すべてが、コウタがティナに刻み込んだ「昭和の正解」そのものだった。

キィィィィッ!!

猛烈なタイヤの焦げる音と共に、軽トラが急停車する。

運転席から降りてきたコウタは、ライカの顔面に、躊躇なくバケツの冷水をぶちまけた。


「甘ぇぞ、ライカ! 気絶する暇があったら、次の三十キロに備えろ!」


「……っ、はい……ッ、コウタさん……!」


バケツを投げ捨て、岩のように立つコウタの姿。

ティナの心臓が、恐怖と、それ以上の戦慄で跳ねた。

ライカは、ティナがなりたかった「理想の自分」だった。

コウタの理念を、一切の不純物なく、完璧な精度で体現している「最高傑作」。


「……絶望した?」


隣で、姉弟子が冷たく、憐れむような声を出す。

「あの子は、コウタさんのやり方の到達点。でもね、ティナ。あの子の戦績を見てみなさい」

姉弟子が突きつけた端末の画面。

そこには、Bランク戦での圧倒的な連勝記録と、その先にある、たった一行の「壁」が記されていた。

『Aランク昇格試験:不合格(判定負け)』


「コウタさんの地獄は、Bランクまでは無敵の兵器を作る。でも、そこが限界なのよ」


ライカの動きは美しく、力強い。

だが、そのすべては「コウタの指示」という枠組みの中に収まっている。

今のティナと全く同じ。

コウタに依存し、コウタの型に縋り付いている限り、この「銀色の鏡」を叩き割る術はない。


「……っ」


ティナは、自分の肥大した拳を見つめた。

自分と同じ地獄を歩み、自分より速く走る「もう一人の自分」。

それを見つめるコウタの瞳は、ティナを育てていた時と、全く同じ、公平で残酷な輝きを放っていた。


 

夜の滑走路に、錆びた鉄と排気ガスの臭いを置いてきた。

ティナは、姉弟子の目を盗み、紹介状に記された場所へと足を踏み入れた。

そこは、この世界の頂点である「Aランク」保持者のみが入場を許される、最新鋭トレーニング施設『エデン』。


「……っ」


自動ドアが開いた瞬間、ティナは思わず息を呑んだ。

そこには、泥も、怒号も、軽トラの爆音もなかった。

クラシック音楽が静かに流れ、調整された酸素とアロマの香りが漂う、清潔な空間。


「あら、コウタのところの『重機』が、迷い込んできたのかしら」


声の主は、真っ白なトレーニングウェアに身を包んだ女性だった。

現役Aランク・ランカー、ソフィア。

彼女は心拍数や乳酸値を示すホログラムを眺めながら、栄養管理されたゼリーを優雅に口にしている。


「……Aランクの、練習を見せて、ほしい……です」


ティナの必死の問いかけに、ソフィアはくすりと笑い、目の前のリングを指差した。

そこで行われていたのは、ティナの想像とはかけ離れた「作業」だった。


格闘家たちは、センサーを全身に纏い、コンピューターが算出した「最短の軌道」をなぞるように、淡々と拳を突き出している。

そこには、コウタに浴びせられた冷水の冷たさも、泥水を啜る屈辱もない。

ただ、効率。

ただ、合理。


「試してみる? 私の『調整』に付き合ってあげるわ」


ソフィアに誘われ、ティナはリングに上がった。

コウタから逃げ続けて培った、時速六十キロの瞬発力をぶつけようと身構える。

だが、ソフィアは構えすらしない。

ティナが踏み込んだ瞬間、ソフィアは最小限の動きでその拳を逸らし、ティナの頸動脈に指先を「添えた」。


「……え?」


殺意がない。

ただ、計算の結果として、そこに指が置かれただけ。


「無駄が多いわね。あなたの筋肉は、恐怖で肥大しすぎているわ」


ソフィアは欠伸を噛み殺しながら、モニターの数値をチェックしに戻った。

ティナは、拳を握ったまま、呆然と立ち尽くした。


これが、Aランク。

これが、コウタが「お前には一生届かない」と断じた、世界の頂点。


(……拍子抜け、だ……)


コウタの地獄が「野蛮」なら、ここは「無機質」。

血の匂いも、生きるための叫びもない。

ただ、最適化されたプログラムをなぞるだけの、高精度の機械たち。


「……これで、いいの……? これが、強さなの……?」


ティナは、自分の巨大な拳を見つめた。

あんなに憧れ、あんなに恐れた「頂点」は、あまりにも静かで、あまりにも空虚だった。

コウタに追い詰められていた時の、あの心臓が破裂しそうなほどの「熱」が、ここでは霧散していく。



 

「コウタ……あの男のトレーニングを、あなたは『教育』だと思っているの?」


ソフィアは、ホログラムディスプレイに映し出されたティナの筋電図を見つめながら、哀れむように言った。

画面には、ティナの筋肉が常に「過緊張」状態にあることを示す、不規則な波形が並んでいる。


「見て。あなたの広背筋と大腿四頭筋。常にコウタという恐怖ノイズに怯えて、不要なエネルギーを消費し続けている。……典型的な、昭和の遺物ね」


ソフィアが指先で操作すると、隣にライカの、そしてソフィア自身のデータが並べられた。

ライカの波形はティナより整っているが、それでも「型」に縛られた窮屈さがある。

対してソフィアのデータは、凪いだ海のように静かだった。


「いい、ティナ。強さとは、暴力に耐えることじゃない。最小の入力で、最大の出力を得ることよ。コウタのやり方は、Bランクまでの『頑丈な肉塊』を作るには適しているけれど、Aランクの精密な演算(格闘)の前では、ただの無駄な抵抗でしかないの」


ソフィアはティナの前に立ち、その無骨な拳に、自身の白く細い手を添えた。


「時速六十キロで走る必要なんてない。相手の重心が崩れるコンマ一秒前に、三センチ動けばいいだけ。……コウタは、あなたに『恐怖』を植え付けることで支配している。でも、その恐怖こそが、あなたの進化を止めている最大の重りなのよ」


ティナの脳裏に、あの泥まみれの軽トラと、冷水の感触がよぎった。

これまでは、あの恐怖こそが自分を動かす唯一のガソリンだと思っていた。

だが、この静寂の中で論理的に解体されていく師匠の教えは、あまりにも前時代的で、滑稽にすら聞こえ始めていた。


「……私は、もっと効率的に、強くなれるんですか?」


「ええ。その醜い恐怖を捨て去ればね。まずはその過剰な筋肉の『力み』を、現代の科学で調教エディットしましょう」


ティナは、自分の体を覆うセンサーの光を見つめた。

泥臭い怒号よりも、この冷徹な数字の方が、今は正解に近い気がしていた。

初めて、コウタの教えという鎖が、自身の意思でミリ単位ずつ軋み始めた。


――――――――――――――――――

 

「違うわ。それは私の動き。あなたの動きじゃない」


ソフィアの声と共に、トレーニングルームのホログラムが掻き消えた。

ティナは精密なセンサーに繋がれたまま、不自然な体勢で固まる。

今、彼女はソフィアから教わった「Aランクの合理的軌道」を完璧になぞったはずだった。

筋肉の収縮、重心の移動、そのすべてをデータ通りに再現したはずだった。


「まねなんてしても、何の意味もないわよ」


ソフィアはティナの巨体に歩み寄り、その分厚い胸板を無造作に指で突いた。


「これは私の骨格、私の筋肉量に基づいた、私だけの最適解。それをあなたがなぞっても、ただの出来の悪い人形にしかならない。……コウタに飼われていた時と同じね。あなたはいつも、誰かの正解を欲しがっている」


ソフィアの言葉は、冷水よりも鋭くティナの胸に突き刺さった。

コウタの地獄(昭和)から逃げ出し、ソフィアの科学(現代)に縋り付いた。

結局、自分は「何に従えばいいか」を教えてくれる飼い主を替えただけだったのではないか。


「……じゃあ、私は、どうすれば」


「自分で考えなさい。あなたのその無駄な筋肉、その異常な回復力……それをどう使えば、私という『計算』を壊せるのか。……これは私の練習よ。あなたの居場所は、ここにはない」


ソフィアは背を向け、再び自身のデータの海へと戻っていった。

取り残されたティナは、静寂の中で自分の拳を見つめた。

指示はない。

怒号もない。

導いてくれる数値すらない。


(……私は、誰でもない。私は、私だ)


ティナは自ら、身体に張り付いたセンサーを一本ずつ引き剥がした。

脳裏に浮かぶのは、コウタの軽トラの排気音。

そして、ソフィアの冷徹な計算式。

その両方を「部品」として解体し、自分の中で混ぜ合わせる。


ドクン、と心臓が力強く跳ねた。

それは恐怖による過緊張ではなく、自分という怪物を定義し直すための、熱い鼓動だった。

ティナは、誰にも指示されることなく、暗闇の中でゆっくりと構えを取った。

それはコウタの型でも、ソフィアの型でもない、歪で、しかし圧倒的な殺意を孕んだ「ティナ」だけの構えだった。


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