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「……っ、あ、……がはっ!!」
肺から酸素が、力任せに絞り出された。
リング中央。
ティナの巨体が、蛇のようなしなやかさで絡みついたヘレナによって、マットに叩きつけられる。
本来なら、今のティナの筋力があれば、強引に振り払うことなど造作もないはずだった。
だが、ヘレナの指先が、ティナの耳元を掠めながら囁いた言葉が、彼女の神経系を麻痺させていた。
「ねえ、知ってる? あの里芋の煮物……あなたのフォロワーたちが、特定したわよ。あんな無防備な家を見せて、お母さんがどうなってもいいの?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
脳裏をよぎったのは、煮物の湯気。
そして、自分を心配そうに見つめていた母のやつれた顔。
(……やめて)
その一瞬の「里芋(甘え)」というノイズ。
格闘家としては致命的な、コンマ数秒の静止。
ヘレナは、その「脆弱性」を見逃すほど甘くはなかった。
「馬鹿ね。戦いの中に『愛』なんて不純物を持ち込むから、そうやって隙ができるのよ」
バキッ、という嫌な音がアリーナに響く。
ヘレナの細い脚が、ティナの右腕を深々と、そして容赦なく極め上げた。
逃げなければならない。
だが、ティナの脳内では、母への不安と、かつての自堕落な自分への退行が、強固な足枷となって彼女を縛り付ける。
筋肉が弛緩する。
視界が、ヘレナの毒を塗ったような冷笑に埋め尽くされていく。
「……あ、あぁ……お、お母……さん……」
もはや死神の威厳など、どこにもない。
そこにいたのは、ただの「家畜」に逆戻りした、無力で巨大な娘でしかなかった。
意識が遠のく中、ティナの聴覚は、客席の罵声でもヘレナの嘲笑でもない、あの「忌々しい音」を拾い始めた。
……ブロロロ……、と。
コンクリートを震わせる、重苦しいディーゼルエンジンのアイドリング音。
脳内の暗闇から、錆びだらけの軽トラックが、時速40キロの殺意を持って突進してくる。
里芋の甘い記憶が、今は彼女を殺すための毒として機能しています。
ここから、この「思想のノイズ」を脳内の軽トラがどう粉砕し、ティナを怪物に引き戻すかを描いていこうと思います。
「……タップしろよ。このまま、その太い腕をゴミにしてやるから」
ヘレナの勝ち誇った声が、遠く、霧の向こう側から聞こえる。
ティナの右肩は、すでに限界を超えて悲鳴を上げていた。
筋肉の隙間に食い込むヘレナの膝。
脳内を占拠するのは、焼き付いた里芋の匂いと、守るべき家族の幻影。
(……ごめんなさい、お母さん。私、やっぱりダメだった……)
心が折れ、指先がマットを叩こうとした、その時。
「……甘えてんじゃねえぞ、コラァ!!」
鼓膜ではない。
脳の最深部、ティナという生物の根幹に、氷を突き立てるような「あの声」が突き刺さった。
バシャァッ!! と、鼻の奥まで焼くような、冷水の衝撃。
反射的にティナの瞳孔が、猫のように細く収縮する。
「里芋だぁ? んな不純物食ってるから動きが鈍るんだ。……時速五十キロだ、ティナ。ついて来れなきゃ、お前の家族ごと轢き殺すぞ」
幻聴。
だとしても、それは母の愛よりも強固な、絶対的な「規律」だった。
ガガガガッ! と、アスファルトを削る排気音が脳内で加速する。
逃げ場はない。
里芋の温もりなど、軽トラの排熱の前には一瞬で蒸発する。
「……あ、……ああああああああああ!!」
ティナの喉から、言葉にならない咆哮が漏れた。
次の瞬間、ヘレナの視界から「獲物」が消えた。
無理やり肩を外し、物理的な痛覚をコウタの恐怖で上書きしたティナ。
彼女は極められたままの右腕を、自身の自重と、軽トラから逃げるための爆発的な脚力だけで強引に「引き抜いた」。
「なっ……!? 嘘でしょ、腕を千切る気……!?」
ヘレナが驚愕に目を見開く。
だが、そこにはもう、里芋を食べて笑っていた娘はいなかった。
煤汚れ、冷水を浴び、軽トラに追われる恐怖だけで再起動した、剥き出しの「生存本能」。
ティナは外れた肩をそのままに、血走った瞳でヘレナの首根っこを掴み取った。
「……あ、あ、あああぁっ……!!」
ティナは外れた右肩を、そのまま自らマットに叩きつけた。
鈍い衝撃音と共に、関節が強引に元の位置へと嵌まり込む。
常軌を逸した激痛。
だが、今の彼女にとってその痛みは、脳内の軽トラに撥ね飛ばされる恐怖に比べれば、微風にも等しかった。
「……うるさい。聞こえない。……もっと、速く、走らなきゃ」
ティナの瞳から、光が消えた。
ヘレナは戦慄した。
つい数秒前まで「お母さん」と泣きそうになっていた女の瞳が、今はただの、錆びついた鉄のような色に染まっている。
ヘレナは焦り、次の「絡め手」として、毒を仕込んだ鋭い爪をティナの顔面へと繰り出す。
だが。
「……遅い」
ティナの巨体が、コンクリートを蹴る排気音のような唸りを上げて踏み込んだ。
コウタが教え込んだ、最短、最速、最悪の軌道。
ヘレナの突き出した腕を、ティナは避けることすらしない。
正面からその腕を、自身の厚い胸筋で受け止め、折る。
「ぎっ、あぁあああ!? 私の、腕がぁっ!!」
悲鳴を上げるヘレナの懐へ、ティナは時速六十キロの質量となって衝突した。
理屈も、技術も、里芋の味も、そこにはない。
ただ、背後から迫る「コウタという名の災害」から逃げ切るための、暴力的なまでの前進。
ティナの右拳が、ヘレナの腹部にめり込んだ。
腹筋の壁を突き破り、内臓を直接震わせ、背骨の裏側にまで衝撃が突き抜ける。
「ごふっ……!!」
ヘレナの身体が、くの字に折れ曲がったまま宙に浮く。
そこへ、ティナの容赦ない追撃が、バケツの冷水を叩きつけるような無慈悲さで降り注いだ。
「……あ、が、あ……」
ヘレナの口から、泡混じりの鮮血が零れ落ちる。
マットに沈みかけた彼女の髪を、ティナは逃がさない。
冷徹に、事務的に。
コウタが「無駄だ」と断じた一切の加減を排し、ティナの膝がヘレナの顔面へと突き刺さった。
「……もう、走らなくていい……?」
ティナの口から漏れたのは、勝利の宣言ではない。
脳内で加速し続ける軽トラの轟音から、いつ解放されるのかという、震えるような問い。
返答の代わりに、レフェリーがティナの身体を必死に引き剥がした。
「勝者、ティナ!!」
その叫び声が、かつて耳にした「能力測定終了」の合図と重なる。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!!」
ティナは膝を突き、激しく喘いだ。
ヘレナはピクリとも動かない。
絡め手も、毒も、SNSの悪意も、すべてが「時速六十キロ」の暴力に轢き潰された。
会場が異常な静寂に包まれる中、電光掲示板には、血に濡れた彼女の名前と共に、輝かしい『B-RANK』の文字が刻まれていた。
「……あ」
不意に、鼻腔をくすぐったのは、排気ガスの臭いではなく。
微かに残っていた、あの里芋の煮物の、甘い残り香だった。
だが、それを思い出そうとした瞬間。
ティナは、客席の最前列に、あの「岩のような男」の幻影を見た気がして、反射的に身体を強張らせた。
「……あ、……ぁ」
更衣室のベンチに座り、ティナは震える手で風呂敷を解いた。
外れた右肩は、応急処置で嵌め直したものの、ドクドクと拍動するような激痛を放っている。
だが、今の彼女にとっては何よりも、母が持たせてくれたあの煮物の匂いが必要だった。
冷え切った弁当箱の蓋を開ける。
里芋の、どこまでも優しく、どこまでも「人間らしい」香りが、鼻腔を満たそうとしたその瞬間。
バシャァッ!!
氷のような衝撃が、ティナの頭上から降り注いだ。
「ぶはっ!? げほっ、ごほっ……!」
鼻から入る水の痛みに悶絶し、ティナは床に転げ落ちた。
濡れそぼった視界の先、空のバケツを提げた姉弟子が、氷の彫刻のような無機質な顔で立っている。
床に落ちた弁当箱には、冷たい水が入り込み、母の煮物が無惨に浮き沈みしていた。
「……何、してるんですか。私……勝ったんですよ? Bランクに、上がったんですよ……!」
「それがどうしたの」
姉弟子は、濡れた床に散らばった里芋を、汚物でも見るかのように踏み潰した。
「今の試合……コウタさんなら一秒で席を立っているわ。迷い、躊躇、そしてこの……『里芋』の甘い腐臭。お前の筋肉は、勝った悦びじゃなく、逃げ場所を見つけた安堵で弛んでる」
姉弟子は、ティナの胸ぐらを掴み上げると、壁に叩きつけた。
そのまま、一枚のタブレットをティナの目の前に突きつける。
そこに映っていたのは、次戦の相手。
白銀の髪をなびかせ、一瞥しただけで魂を凍らせるような瞳を持つ怪物。
「見て。彼女の打撃精度、反応速度、そして……一切の感情を排した殺戮の合理性。今のあなたが行けば、里芋を咀嚼する暇もなく、首を刈り取られて終わりよ」
そこにいるのは、コウタが求めた「最高傑作」の完成形だった。
軽トラから逃げる必要すらない。
彼女自身が、軽トラそのものなのだ。
「……合格点なんて、この世界には存在しないの。死ぬまで、冷水を浴び続けなさい」
姉弟子が放り投げたのは、新しいスケジュール表。
そこには、これまでの特訓すら生温く感じるほどの、人間の尊厳を捨てた地獄のメニューが並んでいた。
ティナは濡れた床の上で、踏み潰された里芋を見つめながら、絶望と共に理解した。
自分はまだ、あの軽トラの轍から、一歩も外に出られていないのだと。




