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人間としての正道
ボロアパートの、色褪せた鉄扉。
ティナは、かつて自分が逃げ出したいと願っていたその扉を、自らの意志で力強く叩いた。
背後には、戸惑いを隠せない姉弟子が立っている。
「……ティナ、正気なの? 過去を捨てるのが『卒業』のはずよ。こんなの、あの人の合理性からすれば……」
「あの人が何と言おうと、私には関係ありません。親を捨て、過去を殺して怪物になるのが『卒業』なら、そんなものは人間じゃない」
扉が開く。
そこには、自分を案じ続けてやつれ果てた、父と母の姿があった。
二人は、かつてのニートだった面影を失い、鋼のように研ぎ澄まされた肉体を宿す娘を見て、息を呑んだ。
「……ティナ……。お前、生きていたのか……」
ティナは何も言わず、用意していた札束――Dランクの戦いで、自らの血と汗で掴み取った正当な報酬を、玄関の畳の上に静かに置いた。
それは掠め取った金でも、与えられた恵みでもない。
一人の人間として自立し、稼ぎ出した証。
「お父さん、お母さん。……心配をかけて、ごめんなさい」
ティナは深く、深々と頭を下げた。
コウタの理論なら、これは「弱さ」の露呈であり、排除すべき「情」だ。
だが、今のティナにとって、この謝罪こそが、何者にも支配されていない自分自身の「意志」の証明だった。
「紹介します。……こちらは、私と一緒に戦ってくれている、姉弟子さんです」
呆然とする両親を促し、ティナは近所の、何の変哲もない大衆食堂へと四人を連れ出した。
姉弟子は、毒でも盛られたかのような顔で、運ばれてきた湯気の立つ定食を見つめている。
「……いただき、ます」
ティナは、コウタが「非効率」と断じた、家庭的な味の煮物を口に運んだ。
涙が出るほど、温かい。
科学的なサプリメントでは決して得られない、心の栄養。
彼女は、両親が語る他愛もない近況報告を、一言も漏らさず聞き入った。
「私は今、自分の足で立っています。……お父さんとお母さんが育ててくれた、この命で。……ありがとうございました」
その言葉は、コウタが築き上げた「冷徹な完成形」を、根本から否定するものだった。
感謝を知り、過去を愛し、その上で強さを求める。
コウタはティナを「道具」にしようとしたが、ティナは自らを、血の通った「人間」として再定義したのだ。
姉弟子は、隣でぎこちなく箸を動かしながら、ティナの横顔をじっと見つめていた。
そこには、かつて自分がコウタに全てを捧げたときには決して得られなかった、眩しいほどの「正しさ」が宿っていた。
コウタの「卒業」という定義を、人間としての「誠実さ」で上書きしたティナ。
二つの食卓
「……また、そんなに食べるの? ティナ」
母の少し掠れた声が、狭い台所に響く。
実家の食卓は、大人四人が座るにはあまりに小さかった。
ましてや、今のティナのように、種族の限界まで練り上げられたディノ娘の体躯にとっては。
テーブルの上には、二つの対照的な景色が並んでいる。
母が用意した、里芋の煮物、焼き魚、そして豆腐の味噌汁。
家庭の温かみが湯気となって立ち上る、かつてのティナが愛し、そして飽きていたはずの「普通の食事」。
その横には、ティナが自ら持ち込んだ巨大なタッパー。
味付けを排し、ただ蒸し上げられただけの大量の鶏胸肉、ブロッコリー、そしてボウル一杯の玄米。
さらに、ドロリとした褐色のプロテインシェイカーが、無機質な軍用品のように鎮座している。
「……うん。今の私の体、これだけじゃ動かないから」
ティナは、母がよそってくれた茶碗を受け取る。
鋼のような前腕が動くたび、服の上からでもはっきりと分かる筋繊維が、家庭的な食卓の風景を塗り潰していく。
彼女はまず、里芋の煮物を口に運んだ。
出汁の味がじわりと舌に広がる。
涙が出そうになるほど優しい、非合理な味。
「おいしい……。お母さん、おかわりある?」
「ええ、もちろんよ。でも、そっちの……その、鳥の肉も食べるんでしょう?」
母の視線が、山盛りの鶏胸肉に向けられる。
それは「食事」というより、機械に放り込む「燃料」のようだった。
娘が踏み込んでいる世界の過酷さを、その異様な食事量が雄弁に物語っている。
ティナは無言で頷き、母の煮物を平らげた後、作業のように自分のタッパーに手を伸ばした。
一切の感傷を排し、ディノ種としての代謝を維持するための、冷徹な「補給」。
温かい家庭料理と、無機質な戦闘糧食。
その両方を同じ胃袋に収めることだけが、今のティナにとって、親への愛と格闘家としての誇りを両立させる唯一の手段だった。
隣に座る姉弟子は、箸を止めたまま、その光景を呆然と見つめている。
「……信じられない。その総カロリー、普通なら内臓が壊れるわよ」
「壊れないよ。……壊させない。私の体はもう、私だけのものじゃないから」
ティナは、自分の太い首筋を流れるプロテインを拭いもせず、最後の一片まで鶏肉を口に詰め込んだ。
母の飯で心を満たし、自分の飯で肉体を作る。
それは、コウタが教えた「効率」を、人間としての「強欲」で上書きする、静かな戦いの儀式だった。




