13
姉弟子の言葉は、ティナの脳内に張り巡らされたコウタの「規律」という神経系を、鋭いナイフで切り裂くようだった。
コウタの理論を、自分の欲望で汚し尽くす。
だが、ティナが選んだのは、安っぽい酒や女遊びに逃げるような「堕落」ではなかった。
「……汚す、か。いいでしょう。あの人が『効率』と呼んだものを、私の『執着』で踏み潰してあげる」
ティナの言う「欲望」とは、生存本能を置き去りにした、破壊的なまでの「自己研鑽」だった。
翌日から、廃ビルの特訓はさらに異様な次元へと突入した。
彼女は、コウタが「オーバーワークであり、筋肉の超回復を妨げる」と厳格に禁じていた、24時間を超える連続トレーニングを自らに課した。
科学的な合理性を、自らの「もっと強くなりたい」という飢餓感で凌駕する。
それは肉体を育てる行為ではなく、肉体を「意志」という炎で焼き尽くす、不条理な儀式だった。
「……まだ、止まらない。あの人の計算が正しいなら、私の筋肉は今、壊死しているはず。……でも、私はまだ、動ける」
ティナは一億の資金を使い、特殊な高圧酸素室と、神経を強制的に活性化させる劇薬を大量に運び込ませた。
コウタの理論では「死」や「再起不能」とされる領域へ、薬物と最新医療、そして狂気的な執着を燃料にして、強引に足を踏み入れる。
コウタが望んだのは、完璧に管理された「美しい最高傑作」だった。
対して今のティナは、自らの身体を実験台にし、理論を無視して「より巨大で、より凶暴な何か」へと、自らの手で改造し続けている。
「見てください、姉弟子さん。私の心臓は、あの人の設定した限界値をとうに超えて動いている。……これが、私の『欲望』です」
廃ビルの中、真っ赤に充血した瞳で、ティナは自分を苛め抜く。
食事も、睡眠も、もはや「快楽」のためではない。
「コウタの予想を裏切る異常進化」を遂げるための、冷徹なコストとして消費される。
それは、堕落ではない。
師匠が与えた「正解」という名の檻を、自らの命を削って破壊する、壮絶な「反逆」だった。
姉弟子は、もはや人間としての形を保とうとすらしないティナの背中を見つめ、震える声で笑った。
「……そうよ、ティナ。あの人が一番恐れるのは、自分の理解が及ばない『未知の怪物』の誕生……。あなたは今、あの人の神域を汚しているわ」
殺戮の興行、地獄の遠征
廃ビルという「孵化器」で、コウタの理論を超越した肉体へと再構築を遂げたティナ。
だが、その牙が本当に「神」を噛み殺せるのかを証明するには、さらなる実戦経験と、組織を崩壊させるほどの圧倒的な資金力が必要だった。
「……姉弟子さん。世界中の地下格闘技場、そして懸賞金のかかった『怪物』たちのリストを出して」
ティナは、もはや人間としての重みを失ったかのような、静謐でいて暴力的な声で命じた。
一億の残高はまだあるが、コウタというシステムを根底から買い叩くには、足りない。
彼女は、自らを「賞金稼ぎ」兼「大会荒らし」として、闇の世界へと解き放った。
遠征の足跡は、血と札束で塗り潰されていった。
東南アジアの賭け試合、ロシアの地下ケージ、中東の私設軍隊の練兵場。
ティナは、姉弟子をセコンド兼ディレクターとして従え、あらゆる「戦いの聖域」に土足で踏み込んだ。
「……おい、あんな女に賭けるのか? 筋肉の付き方がおかしいぞ、あれは人間じゃない」
観客たちの嘲笑は、試合開始のブザーと共に絶叫へと変わる。
ティナの動きは、もはや「格闘技」の範疇にない。
コウタが教えた最短の軌道に、再構築された肉体独自の「不自然なバネ」が加わっている。
相手がガードを固めた上から、前腕の骨ごと頭蓋を粉砕する。
組み付こうとした巨漢の指を、皮膚の上から一気にへし折る。
「……次。もっと、私の骨を軋ませてくれる者はいないの?」
勝利の咆哮はない。
ただ、作業のように敗者を積み上げ、賭け金と懸賞金を根こそぎ奪い去っていく。
奪った金で、彼女はさらに高純度の薬剤を買い、姉弟子に命じて最新の戦闘解析ソフトをアップデートさせた。
実戦を重ねるたびに、ティナの「経験値」は、コウタがかつて見せた模範解答を上書きしていく。
数多の死線。
飛び散る返り血。
それらすべてが、彼女の脳内で「対コウタ」のシミュレーションへと変換されていく。
「……ティナ。今の数ヶ月で、獲得賞金は十億を超えたわ。裏社会では、あなたのことを『黄金の死神』と呼んでいる」
姉弟子の報告に、ティナは血に汚れた拳を見つめた。
金は積み上がり、肉体は研ぎ澄まされ、実戦経験は「王」を殺すに足りる厚みに達した。
(……もうすぐです、コウタさん)
(あなたの『最高傑作』は、世界中の悪意を喰らって、あなたを喰い殺す『天敵』になりました)
世界中の地下格闘界を蹂躙し、莫大な富と「実戦の極意」を手に入れたティナ。
蹂躙のDランク
会場の熱気は、期待と嘲笑が入り混じった濁ったものだった。
「泥仕合の女王、再臨!」
誰かが叫んだ野次に、観客席がどっと沸く。
対戦相手のベテラン兵――かつてティナと死闘を繰り広げた女は、ニヤついた顔でグローブを叩き合わせた。
「おいおい、そんなに震えてたっけか? あの時は随分と可愛い声を出しながら泣きついてきたじゃねえか」
男の挑発。
だが、ティナの耳には、観客の罵声も、相手の言葉も、もはや「ノイズ」としてすら届いていない。
彼女が集中しているのは、自身の血管を流れる血液の温度と、再構築された筋線維が放つ微細な振動だけだ。
セコンドの姉弟子が、無機質な瞳でストップウォッチを構える。
「ティナ。データの無駄遣いはさせないで。……三秒よ」
「……了解」
試合開始のブザーが鳴り響く。
男は「また泥仕合で会場を沸かせてやる」と言わんばかりに、大きく踏み込んで右のロングフックを放った。
かつてのティナなら、その威圧感に目を瞑り、無様に抱きついていただろう。
だが、今のティナにとって、その拳は止まっているに等しかった。
一歩。
ただ、最短距離を。
コウタが「無駄」と切り捨てた一切の感情を排し、純粋な物理法則として、ティナの右拳が放たれた。
「ドォン!!」
鈍い衝撃音が、アリーナの空気を物理的に震わせた。
相手のガードごと顎を粉砕し、衝撃波が脳幹を揺さぶる。
女の意識は、自分が何を放とうとしたのかすら思い出す暇もなく、文字通り「消滅」した。
糸の切れた人形のように、女の巨体がリングに沈み、バウンドする。
会場が、静まり返った。
野次を飛ばしていた観客も、実況席も、何が起きたのか理解できずに言葉を失う。
以前、血反吐を吐き、十五分間泥沼の殴り合いを演じた相手を、彼女はわずか一撃――コンマ数秒で「解体」したのだ。
「……え? あ、……KO! KOです!!」
実況が叫ぶが、ティナはすでに背を向けていた。
勝利の余韻も、かつての因縁への感慨もない。
彼女にあるのは、あまりにも手応えのない「作業」を終えた後の、深い空虚感だけだった。
(……この程度? 以前の私は、こんな小石に躓いていたの?)
姉弟子が差し出すミネラルウォーターを受け取り、ティナは血の色の混じった瞳で会場を冷たく見下ろした。
金は入った。実戦の記録も残った。
だが、彼女の飢えは、一向に満たされる気配がなかった。
「お疲れ様、ティナ。二・八秒……。いい『ウォーミングアップ』だったわね」
姉弟子の冷徹な称賛が、静まり返る会場で残酷に響いた。
かつての壁を「作業」として踏み潰したティナ。
Dランクという舞台が、もはや自分を研ぐための「砥石」にすらならないことを痛感します。




