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ICカードキーをかざし、重い鉄扉を開けた先。

そこは、廃ビルの最上階を丸ごと改造した、剥き出しの鉄骨と冷たいコンクリートが支配する空間だった。

外界の音は一切届かず、ただ、誰かがサンドバッグを叩く鈍い音だけが、不気味に響いていた。


「……先客、ですか」


ティナは低く、野性的な声で呟いた。

部屋の奥、一条の月光に照らされた場所に、一人の女がいた。

自分と同じように、極限まで研ぎ澄まされ、もはや人間としての「柔らかさ」を一切失った肉体。

女はティナの侵入に視線すら向けず、一心不乱に鉄の鎖を全身に巻き付け、自らを苛め抜いていた。


「……お前も、あのコウタに『死ぬまで卒業できない』と言われたクチか」


女の言葉に、ティナの喉が鳴った。

その女は「姉弟子」――かつてコウタが最高傑作と呼ぼうとして、あまりの狂気に持て余したとされる伝説の卒業生だった。

その夜、ティナは彼女から離れた場所で、与えられた最低限のスペースに寝床を作った。

高級アパートのベッドとは違う、ただの固い床。

極限の疲労が彼女の意識を急速に奪っていく。

脳内には、コウタの冷笑と、これまでの過酷な特訓の記憶が、濁流のように押し寄せていた。

……そして、深い闇の中で、事件は起きた。

かつての「ニート」としての自分。

何もせず、ただ誰かに守られ、甘やかされていた頃の無垢な夢。

その夢の心地よさに、ティナの意識は一瞬だけ、かつての「無力な娘」へと退行した。


「……っ!?」


夜中、強烈な不快感に襲われて目が覚めた。

――後

それは、自律した「怪物」を気取っていた自分にとって、最も屈辱的で、最も「人間としての弱さ」を象徴する失態だった。

金を持ち、地獄を選び、完璧な卒業生になろうとしていた肉体が、睡眠という無意識の檻の中で、かつての「甘え」を露呈させてしまったのだ。


「……はぁ、はぁ……っ!!」


ティナは震える手で、濡れた衣服を掴んだ。

恥辱と絶望が、全身の筋肉を硬直させる。

コウタが見ていたら、どれほど自分を嘲笑っただろうか。

だが、暗闇の中から、姉弟子の冷徹な視線が自分を射抜いていることに気づいた。


「……なんだ。お前も、まだ『人間』の未練を捨てきれていないのか」


女の蔑むような声。

ティナは顔を伏せ、濡れた床に額を擦り付けた。

莫大な金を持っていても、この瞬間の屈辱を拭い去ることなどできない。

地獄へ来たつもりが、そこにはまだ、消し去れない「過去の自分」という名の、最大の敵が潜んでいたのだ。



姉弟子は濡れた床に這いつくばるティナを見下ろし、鼻で笑った。

彼女は自分の身体に巻き付けていた鉄の鎖を、苛烈な音を立てて解き放つ。


「……そんな不始末を犯すのは、脳がまだ『保護』を求めている証拠だ。お前の言う『選択』とやらは、その程度の寝小便で流されるほど軽いのか?」



「……っ、違います。私は……!」


反論しようとしたティナの喉元を、姉弟子の強靭な脚が踏みつけた。

コンクリートの冷たさと、逃げ場のない圧迫感。

姉弟子は氷のように冷たい瞳で、ティナに宣告した。


「コウタさんの資料に書いてなかったか? ここは、人間を捨てきれない出来損ないを、徹底的に『破壊』する場所だ。……立て。その濡れた服を脱げ。乾くまで、一睡もさせない」


姉弟子が提示した「特訓」は、これまで以上に非人間的なものだった。

睡眠を一切禁止し、体内の水分を汗として全て絞り出す。

失態を犯した自分への罰として、ティナは姉弟子が課す超高強度のサーキットトレーニングに、文字通り死に物狂いで食らいついた。

筋肉が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅する。

眠気が襲うたびに、姉弟子からの容赦ない打撃が飛んできた。


「寝るな。意識を手放せば、お前はまたあの醜いニートに戻るぞ。……あの方に、一生軽蔑されたまま死にたいのか?」


その言葉は、どんな暴力よりもティナを震え上がらせた。

金があろうが、実績があろうが、一瞬の「甘え」が自分を無価値なゴミへと引き戻す。

ティナは朦朧とする意識の中で、姉弟子の背中に、かつてのコウタの影を見た。

(……ああ。ここは、地獄の続きなんだ)

(私は、一生こうして、誰かに自分を破壊し続けてもらわなきゃ、生きていけないんだ)

朝日が廃ビルの隙間から差し込む頃、ティナの肉体は、限界を超えた疲労の先にある「虚無」へと到達していた。

服はとうに乾き、肌には冷たい汗の結晶が浮いている。

失態の恥辱は、さらなる苦痛によって上書きされ、彼女の自律心は、より歪な形で補強されていった。

姉弟子による「矯正」という名の蹂躙。



 数日間にわたる不眠不休の特訓。

極限状態の中で、ティナは奇妙な違和感に気づき始めていた。

自分を罵倒し、完璧な規律を強いる姉弟子の瞳。

そこにあるのは、コウタのような冷徹な理性ではなく、底の見えない「飢え」だった。


「……どうした、手が止まっているぞ! 立て! 筋肉に意識を……コウタさんの言葉を刻み込めッ!!」


姉弟子が叫びながら、ティナの肩を強く突き飛ばす。

しかし、その勢い余った彼女自身が、コンクリートの柱に縋り付くようにして崩れ落ちた。

荒い呼吸。

震える指先が、何もない空間を虚しく掻いている。


「……コウタさん。見て、見てください。私は、私はまだ……。あの子を、ちゃんと『壊して』いますから……だから……」


姉弟子の口から漏れたのは、指導者のそれではなく、捨てられた子供のような、哀れな求愛の言葉だった。

彼女は、壁に自ら刻んだであろうコウタの格言を、血が滲むほど爪で掻き毟っている。

ティナは、戦慄した。

目の前にいる強靭な怪物は、自律などしていなかった。

コウタに「卒業」という名の絶縁を突きつけられ、精神を病み、この廃ビルで「コウタの幻影」を演じ続けているだけの、哀れな亡霊。

彼女がティナを厳しく育てるのは、規律のためではない。

ティナを「完璧な作品」に仕上げてコウタに献上することで、もう一度自分を振り向いてもらおうとする、歪んだ供物だったのだ。


「……姉弟子、さん。あなたは……」



「黙れ! 私を見るな! コウタさんを見ろ! 私の中に、あの方を見ろと言っているんだ!!」


姉弟子が、なりふり構わずティナに掴みかかる。

その力は凄まじいが、技術は崩れ、ただの執着へと変貌していた。

ティナは、自分を支配していた恐怖の正体が、自分と同じ「依存の成れの果て」であることを識った。

(……この人は、私だ)

(コウタさんに捨てられ、自分を見失った、未来の私の姿だ)

莫大な金を持っていても、この空虚は埋まらない。

姉弟子の崩壊した姿は、ティナが最も恐れていた「卒業後の真実」を、残酷なまでに突きつけていた。


 

姉弟子の、あまりにも惨めで無様な崩壊。

それを目の当たりにした瞬間、ティナの胸に沸き上がったのは、嫌悪ではなく、焼けるような「同族嫌悪」だった。

(……見たくない。こんな、惨めな姿……!)

自分も、一歩間違えればこうなっていた。

金があっても、筋肉があっても、心が「誰か」に支配されたままでは、いつかこうして廃人になる。

ティナは、床を掻き毟る姉弟子の手首を、万力のような力で掴み取った。


「……しっかりしてください。あなたは、私の『鏡』なんでしょう?」



「放せ、放せ……! コウタさんが……コウタさんが、私を、見て……」



「見ていません! あの人は、もうここにはいない! 絶望しなさい! 私たちは、捨てられたんです!!」


ティナの叫びが、廃ビルの静寂を切り裂いた。

姉弟子の動きが、ピタリと止まる。

ティナは、もらったばかりの資料――コウタからの「死刑宣告」を、姉弟子の目の前で無造作に破り捨てた。


「……姉弟子さん。私を、コウタさんに捧げる『供物』にするのは止めてください。そんなもののために、私は鍛えてきたんじゃない」


ティナは、自らの懐からスマートフォンを取り出し、銀行の残高画面を突きつけた。

一億近い、莫大な数字。


「……この金で、世界中の薬でも、最新の機材でも、何でも買ってあげます。……だから、もう一度立ちなさい。コウタさんのためじゃなく、私を壊すために。私が、あなたを壊すために」


ティナは姉弟子の身体を引きずり、強引に冷たいシャワーの下へと放り込んだ。

泥と、涙と、コウタへの執着。

それらを冷水で洗い流し、一人の「女」として再生させるための、荒々しい儀式。

姉弟子の瞳に、うっすらと理性の光が戻り始める。

それは、依存から脱却した光ではない。

目の前にいる自分より若く、自分より「傲慢」なティナという怪物を、一人のライバルとして認識した、殺意の混じった光だった。


「……ふっ、……ははっ。生意気な、後輩……。私を、金で買うつもりか」



「……ええ。私は、あなたが欲しい。コウタさんに勝つために、あなたの狂気が、必要なんです」


びしょ濡れのまま、二人の女が廃ビルの闇で見つめ合う。

そこにはもう、師匠という神の居場所はなかった。

あるのは、地獄を買い取った成金ティナと、地獄で朽ちかけた亡霊(姉弟子)の、歪な再起の誓いだけだった。


 姉弟子と共に、廃ビルを「地獄の要塞」へと作り変えてから数ヶ月。

ティナは、自らの肉体がかつての「人間」としての枠組みを、とうに超えていることを自覚していた。

だが、その評価基準モノサシは、常に自分の中に住み着いた「コウタ」の幻影でしかなかった。


「……姉弟子さん。一つ、聞いてもいいですか」


血と汗に塗れた超高負荷トレーニングの合間。

ティナは、最新鋭の測定器の結果を眺める姉弟子へと問いかけた。


「今の私の実力は……あの男、コウタさんと比べて、どのあたりにいるんでしょうか。私はもう、あの人を殺せる領域に……届いていますか?」


姉弟子は、手元のタブレットから視線を外し、ティナの全身を舐めるような冷徹な目で見つめた。

かつてコウタに「最高傑作」と呼ばれながらも、その重すぎる執着ゆえに捨てられた女。

その瞳には、嫉妬を通り越し、一種の崇拝にも似た「鑑定」の光が宿っていた。


「……格闘家としての単純な出力、反射速度、そして破壊の精度。その点においては、あなたはもう、あの人を……コウタさんを凌駕しているわ」


姉弟子は一歩近づき、ティナの岩のように硬い肩に、湿った手を置いた。


「でもね、ティナ。あの人の本当の恐ろしさは、暴力そのものじゃない。……『他者の魂に、一生消えない呪い(飼い主)を植え付ける』、その支配力よ。今のあなたは、肉体こそ怪物だけど、その動機はまだ……あの人が植え付けた『恐怖』に従っているだけ」


姉弟子の指が、ティナの心臓の鼓動を確かめるように、胸元を鋭く突く。


「今のまま戦えば、あなたはあの人の『顔』を見た瞬間に、また家畜に戻るかもしれない。肉体は届いていても、精神がまだ……あの人の引いた境界線ボーダーを超えていないのよ」


ティナは奥歯を噛み締めた。

どれだけ鉄を上げ、どれだけ身体を壊しても、心の奥底にある「警告音」が消えない理由。

それは、自分という怪物を構築した基幹プログラム(OS)が、依然としてコウタのままであるからだ。


「……なら、どうすればいい。何を壊せば、あの人を完全に殺せるんですか」



「簡単よ。コウタさんの『理論』を、あなたの『欲望』で汚し尽くすの。あの方が一番嫌がるのは、自分が作り上げた最高傑作が、自分の想定外の……下俗で、汚らわしい何かに変質すること」


姉弟子は、狂気に満ちた笑みを浮かべて囁いた。


「もっと堕ちなさい、ティナ。この金と、暴力と、快楽に溺れて……あの人が吐き気を催すような『最低の怪物』になるの。それが、あの方を絶望させるための、唯一の特効薬よ」


肉体的なスペックは師匠を超えつつあるものの、精神的な「去勢」が解けていないことを指摘されたティナ。


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