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通帳と資料を抱え、ティナが辿り着いたのは、何の変哲もない街のトレーニングジムだった。

そこには、かつてのジムのような血の匂いも、絶叫も、剥き出しの狂気も存在しない。

明るい照明の下、最新のマシンが並び、健康のために汗を流す一般の老若男女が、和やかなBGMの中で運動を楽しんでいる。

(……ここが、コウタさんの示した場所?)

ティナの強靭な肉体は、その清潔な空間の中で、あまりにも露骨に浮き出していた。

場違いな「怪物」の侵入に、周囲の会員たちが一瞬、動きを止めて彼女を凝視する。

ティナは受付の男に、コウタから渡された一通の紹介状を差し出した。


「……これを、見てください。私は、トレーニングを……『選択』しに来ました」


男は手紙を読み、次にティナの肉体を、鑑定士のような鋭い目で見つめた。

これまでの和やかなスタッフの顔は、一瞬で消えていた。


「……ああ。コウタさんから聞いてるよ。君が『卒業生』か」


男は周囲に聞こえないような低い声で囁いた。

彼もまた、あの地獄を知る者の一人なのだ。

だが、彼はティナに過酷なメニューを渡す代わりに、ただ一言、こう告げた。


「ここは普通のジムだ。マシンの使い方は壁に貼ってある。……誰の命令も、誰の指導もない。全部自分で考えて、自分で追い込め。それができるまで、君には何の資料マッチメイクも渡さない」


ティナは呆然と立ち尽くした。

地獄のような環境を予想していた彼女にとって、この「普通」という環境こそが、最も困難な試練だった。

誰も怒鳴らない。誰も殴らない。

手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。

サボっても誰にも気づかれない。

(……試されている。私は、命令がなくても『怪物』でいられるのかを)

彼女は震える足で、一台のレッグプレスマシンへと向かった。

周囲の人間が健康維持のために設定する重さの、十倍以上のプレートを積み上げる。

コウタの目がなくても、あの日の「警告音」を脳内で再生しながら、彼女は自分自身を追い込み始めた。

かつての自分がいかに無知だったかを、改めて痛感する。

強制されていた頃は、ただ従えばよかった。

だが今は、一回一回の動作に、自分の意志で「死」を刻み込まなければならない。


「……あ、ああぁっ!!」


悲鳴のような吐息と共に、マシンが軋む。

平穏なジムの中に、ティナという孤高の地獄が、自律的に形成されようとしていた。

トレーニングを終え、汗を拭いながらジムの更衣室に向かおうとした時だった。

数人の女性会員たちが、戸惑いと好奇心が混ざったような笑みを浮かべて、ティナを呼び止めた。


「ティナさん、お疲れ様。あのさ、もし良かったら今度の日曜、みんなでパンケーキ食べに行かない? 近くに新しいお店ができたの」


ティナの足が止まる。

パンケーキ。日曜日の外出。

それは、かつての彼女が、画面越しに眺めていた「普通の女の子」の記号だった。

今の彼女の手元には、コウタから渡された膨大な資金がある。

贅沢をしようと思えばいくらでもできる。

地獄のような特訓も、吐き気がするようなプロテインも、孤独なアパートでの自炊も、今すぐに止めて「こちら側」へ戻る権利を、彼女は既に持っているのだ。

(……行きたい)

喉の奥で、小さな声が漏れそうになった。

コウタの怒号もなく、誰に筋肉を品定めされることもなく、ただ甘いものを食べて笑い合う。

それは、かつてのニート時代、何者でもなかった自分が、何者にもならずに許されていた、あの微睡むような安らぎの延長線上にある。

(私は、本当にこれをやりたいの?)

自分の掌を見つめる。

硬く、分厚く、破壊のために最適化された、怪物の手。

この手で、可愛らしいフォークを持ち、無意味な会話に花を咲かせる。

その光景を想像した瞬間、ティナの背筋に、氷を流し込まれたような寒気が走った。

(……罠だ)

直感した。

この「普通」こそが、コウタが仕掛けた最も残酷なテストなのだ。

強制された苦痛から逃げるのは容易い。

だが、差し出された「幸福」を、自分の意志で蹴り飛ばし、自ら泥沼に戻る。

それこそが、家畜ではない「人間」としての、最も過酷な選択。


「……すみません。私は、日曜日は……脚のレッグデイなんです」



「えっ、レッグ……? でも、たまには休みも必要だよ?」



「……必要ありません。私は、休むために、ここに来たわけじゃないんです」


ティナは誘いを断り、足早に更衣室へと消えた。

ロッカーに預けていた、コウタの資料を取り出す。

そこには、彼女の弱点と、それを克服するための地獄のようなスケジュールがびっしりと書き込まれている。

鏡に映った自分の顔は、かつてのニートの頃のような、死んだ魚の目をしてはいなかった。

だが、その瞳に宿っているのは、希望などではなく、自分という怪物を飼い慣らそうとする、狂気じみた自律の光だった。

(……私は、やりたいんじゃない。やらなきゃ、私は消えてしまう)

自分の心が、まだあの温かい沼を求めていることを自覚しながら。

ティナは、あえて最も重いプレートをもう一度セットするために、フロアへと戻っていった。

パンケーキの誘いを断ったあの日から、ティナの中で何かが決定的に「変質」した。

普通の女の子としての幸福を、自らの意志でドブに捨てたという自負。

それが彼女を、もはや「ストイック」という言葉では形容できない狂気へと駆り立てていた。


「……あと、三回。死んでも、上げる」


一般の会員たちがイヤホンで音楽を聴き、談笑しながら汗を流す中で、ティナの周囲だけが異様な熱気に包まれていた。

彼女が占有しているパワーラックからは、過積載されたプレートが悲鳴を上げ、金属同士が擦れる不快な音が絶え間なく響く。

設定された最大重量では足りず、彼女は自分のアパートから持ち込んだ重りを強引に括り付けていた。

ガコンッ! と、激しい衝撃音がジム内に響き渡る。

限界を超えた重量をキャッチするたびに、床のラバーマットが沈み込み、建物の基礎にまで振動が伝わっていた。


「あの、ティナさん……ちょっといいかな」


見かねた受付の男が、困惑と恐怖が混ざった表情で歩み寄ってきた。

彼はコウタの知り合いであり、彼女の素性を知っているはずの男だ。

だが、その彼ですら、今のティナの瞳に宿る「暗い火」に気圧されていた。


「これ以上は困るよ。設備の設計限度を超えてるし、他の会員さんたちが怖がって、退会したいって言い出してる。……悪いけど、明日からはもう、ここには来ないでほしい」


ティナは、汗に濡れた前髪をかき上げ、男を無機質に見つめた。

謝罪も、反論もしなかった。

ただ、自分の筋肉がまだ「足りない」と叫んでいることだけを感じていた。

普通の場所。普通の設備。

そんなものでは、自分の中に住み着いた怪物を満足させることはできない。

(……分かっていたはずだ。私はもう、光の下では生きられない)

だが、男はティナの耳元で、さらに声を低めて付け加えた。


「……一般フロアでのトレーニングは、な」


男は周囲を警戒しながら、カウンターの奥にある重厚な鉄の扉を指差した。


「コウタさんから聞いてるよ。君は『卒業生特待』の対象だ。あんな怪物じみた数値を一般客の前で出すな。……付いてこい」


男に導かれ、ティナは鉄の扉の先へと進んだ。

そこは、清潔な一般フロアとは対極にある、無機質なコンクリートの空間だった。

窓はなく、蛍光灯がチカチカと不気味に明滅している。

置かれているのは、最新のマシンではない。

錆び付いた鉄、極太の鎖、そして人間の限界を物理的に破壊するために作られた、拷問器具のような旧式の重機たちだった。


「ここなら、どれだけ音を立てても、何を壊しても構わない。コウタさんがお前のために用意した、特待生専用の『檻』だ」


男は壁に貼られた一枚の誓約書を指差した。


「ただし、この設備を使う以上、お前はジムの代表として『公式戦』に出てもらう。卒業生として、無様に負けることは許されない。……それが、特待の条件だ」


ティナはその空間を見渡し、深く、長く呼吸した。

鼻を突くのは、懐かしい鉄と、誰かの古い汗の匂い。

一般フロアのパンケーキの誘いや、清潔な安らぎ。

そんなものは、この扉一枚で完全に遮断された。

(……やっぱり、お見通しだったんだ)

(私は、こういう場所でしか、生きている実感が持てないって)

ティナは、自らその「檻」の奥へと進み、重厚な鉄のバーベルを掴んだ。

誰に命令されるでもなく、自分の意志で、その重みを肩に担ぐ。

卒業生特待。それは救いなどではない。

「一生、戦いの螺旋から降りるな」という、コウタからの永劫の呪いだった。


「……選択、完遂。私は、ここで……本物になります」


誰もいないコンクリートの部屋に、ティナの咆哮と、鉄が軋む絶叫が響き渡った。

試合直前、アパートの薄暗い部屋でティナは通帳を見つめていた。

そこに刻まれた、人生を何周しても使い切れないほどの数字。

(……行かなくても、いいんだ)

一度だけ、そんな考えが脳裏をよぎった。

今の自分には、コウタからの「暴力」という強制力はない。

この金を持って遠くへ逃げ、名前を変え、毎日好きなものを食べ、飽きるまで眠り続ける生活。

かつてニートだった自分が、命よりも欲しがった「完璧な自堕落」が、今、掌の中にある。


「……パンケーキも、好きなだけ、食べられる」


掠れた声で呟く。

甘い蜜のような誘惑が、じわりと全身の筋肉を弛緩させていく。

特訓を止め、この重すぎる肉体を脱ぎ捨て、ただの「無価値な一人」に戻る。

それは、どんな激痛に耐えるよりも、ある意味で勇気のいる「幸福」への逃避だった。

だが、そう思った瞬間、ティナの身体が激しく拒絶反応を示した。

胃の底からせり上がる、猛烈な吐き気。

(……逃げた先で、私は『誰の』命令を聞いて生きるの?)

誰にも縛られない自由。

それは彼女にとって、暗闇の海に放り出されるのと同じ、耐え難い恐怖だった。

命令も、規律も、罰もない世界。

そこでは、自分が「怪物」であることすら許されない。


「……嫌。そんなの、死んでるのと、同じ」


ティナは震える手で、テーブルに並んだ高級なデリバリーの食事を床に叩き落とした。

散乱する宝石のような料理。

それを踏みつけ、彼女は部屋の隅に置かれた、最も不味く、最も合理的なプロテインの粉末を、水も通さず口に放り込んだ。

粉っぽさが喉を焼き、むせ返るような不快感が鼻を抜ける。

だが、その「不自由な苦痛」だけが、彼女に自分がまだコウタの卒業生であることを思い出させた。


「私は……私は、お金で自分を、買ったりしない……!!」


彼女はアパートを飛び出し、夜の街を疾走した。

向かう先は、あの鉄の扉の向こう側。

金があるからこそ、あえて地獄を選ぶ。

それが、自分の中に住み着いた「ニート」という名の弱さを、自らの意志で殺し続ける唯一の儀式だった。

特待エリアの重い扉を、力任せに開ける。

そこには、対戦相手のデータが映し出されたタブレットと、自分を待つ冷たい鉄塊だけがあった。

ティナの瞳から、迷いが消える。

彼女は、黄金の檻を内側から破壊するように、狂気じみた自律の咆哮を上げた。

試合の最中、対戦相手の放った強烈な一撃がティナの側頭部を捉えた。

視界が白く弾け、平衡感覚が消失する。

コンクリートの床に叩きつけられた衝撃で、肺から酸素が力任せに押し出された。


「……が、はっ……!!」


意識が遠のき、暗闇が這い寄ってくる。

その静寂の中で、ティナは「甘い誘惑」の声を聴いた。

(……もう、いいじゃない。お金ならある。負けても死ぬわけじゃない。お家に帰って、あのふかふかのベッドで眠りましょう……)

それは、自らの内側に潜む、かつての「弱く自堕落な自分」の囁きだった。

だが、その甘い闇を切り裂くように、耳の奥で懐かしい「罵倒」が響いた。


「……立て。家畜に戻るか、人間として死ぬか、今ここで選べ、ティナ」


心臓が跳ねた。

それは幻聴に過ぎない。コウタはここにいない。

だが、その声はどんな物理的な打撃よりも鋭く、ティナの魂を貫いた。

彼女にとって、コウタの不在は「自由」ではなく、自分の内側に「永遠の監視者」を飼うことと同義だったのだ。

(……まだ、終わらせない。私は、あの方に見放されるわけにはいかない……!!)

ティナの瞳に、狂気じみた光が宿る。

筋肉が、神経が、師匠の声という電力を受けて、無理やり再起動した。

震える手で床を掴み、ひしゃげた鉄のような軋みを上げて、彼女は再び立ち上がる。


「……見ていますか、コウタさん。私は……私はまだ、止まって、いません……!!」


対戦相手が怪訝そうに眉を潜める。

完全に終わったはずの獲物が、より深い絶望と悦びを湛えて蘇ったのだ。

ティナは口内に溜まった血を吐き捨て、笑った。

その顔は、もはや「人間」ではなく、師匠という名の神に捧げられる「完成された生贄」のそれだった。

脳内に響くコウタの幻影が、冷徹に、しかし満足そうに口角を上げる。

その刹那、ティナの拳が、音を置き去りにして相手の顔面に突き刺さった。

身体的な限界を超え、脳内の「コウタ」による支配を自ら望んで加速させたティナ。

崩れ落ちる相手を見下ろしながら、彼女は勝利の悦悦感ではなく、命令を完遂した安堵感に、全身を震わせるのだった。


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