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実家への帰り道。
車内を支配するのは、かつての自堕落な静寂とは異なる、重苦しい沈黙だった。
後部座席に座るティナは、自らの肉体がシートを深く沈ませる感触を、忌々しいほど鮮明に感じていた。
半年かけて作り上げたこの身体は、もはや「日常」という器には収まりきらないほど、巨大で歪なものに変貌していた。
「……お父さん。お母さん」
家に着くなり、ティナは玄関のたたきに膝をついた。
泥のついた作業着のまま、迷いなく額を床に擦り付ける。
「すみませんでした。……私は、何も分かっていませんでした。普通の人として生きるなんて、そんなこと、今の私には……もう無理だったんです」
「ティナ、顔を上げて……。もういいのよ。少し、休みましょう? お父さんもお母さんも、あなたが一生懸命やっていたのは分かっているから」
母の優しい声。
かつてのティナなら、その言葉に甘え、再び「ニート」という深い眠りに落ちていただろう。
だが、今の彼女の内側には、優しさで消し去ることのできない「理念」という火が、冷たく燃え続けていた。
「……違います。お母さんの言う『休み』は、私にとってまわりに笑われてるみたいに聞こえるんです」
ティナは顔を上げた。
涙に濡れたその瞳には、かつての怯えはなく、ただ一点を見据える鋭い光があった。
彼女は、自分の掌を見つめる。
あの倉庫で、自分を嘲笑ったネットの言葉。
「今どきの指示待ち」「洗脳が解けた社畜」。
それらを思い出すたび、肉体が怒りで爆発しそうになる。
(……私は、あの地獄を『洗脳』なんて言葉で終わらせない)
(コウタさんが私に刻んだのは、もっと、絶対的な……!)
ティナは、動揺する両親を真っ直ぐに見据えた。
「お願いです。私を、もう一度……あの世界に立たせてください。コウタさんのジムはなくなってしまったけれど、あの人が教えてくれた『戦い』だけは、私の筋肉の中に残っています」
「ティナ……何を言っているんだ。あんな恐ろしい場所、もう忘れて……」
「忘れられません!! 忘れられるわけがないんです!!」
ティナの声が、家中に響き渡る。
「あの暑い日々……死を覚悟して、一ミリの妥協も許されなかったあの瞬間だけが、私が『人間』として生きていた唯一の時間でした。今の私は、生きながら死んでいるのと同じなんです。……お父さん、お願いします。
私、生きたい。賞金が出るような、もっと過酷な戦場へ」
自分の存在を、世界に、そしていつかどこかで見ているであろう師匠に知らしめる。
「卒業」という名の絶縁を突きつけられたあの日。
自分がいかに無知で、師匠の掌の上で守られていただけだったか。
それを思い知った今だからこそ、彼女は「誰の命令でもない、自分の意志」で、再び檻の中へ戻ることを選ぼうとしていた。
「……選ぶこと。コウタさんの教えを、私が証明してみせます。だから……私に、もう一度だけ、チャンスをください」
たたきに擦り付けられた拳が、みしりと音を立てて床を鳴らした。
それは娘の更生を願う両親にとって、あまりにも残酷で、しかし抗いようのない「決意」の表明だった。
翌朝、食卓に並んだ朝食にティナが手を触れることはなかった。
昨日の騒動で腫れ上がった拳を握り込み、ただ静かに、父が口を開くのを待っていた。
父は、娘の筋肉質な肉体が発する、隠しきれない闘争の熱気に圧されるように、一枚の通帳と、分厚い封筒をテーブルに置いた。
「……これは、あの人から預かっていたものだ」
ティナの肩が、びくりと跳ねた。
父の指先は、通帳の上で微かに震えている。
「お前がd-tubeで晒され、あの地獄を生き延びた対価……収益のすべてだ。もし、お前がいつか平穏に耐えきれず、自ら戦場へ戻ることを選んだなら、これを渡せと言われていた」
通帳を開くと、そこにはティナが一生かけても稼げないような、莫大な数字が並んでいた。
それは、彼女の絶望と羞恥が、冷徹な「市場価値」として換金された結果だった。
「それと、これだ」
父が封筒から取り出したのは、全国各地で開催される格闘大会のスケジュール、地下格闘技のネットワーク、そして彼女に最適化されたトレーニング施設のリサーチ資料だった。
そこには、コウタの冷たい筆致で、一つのメモが添えられていた。
『これを選んだなら、二度と家には戻るな。家畜に帰る場所はない。自力で、地獄を飼い慣らせ』
心臓が、早鐘を打つ。
コウタは、お見通しだったのだ。
自分が普通の幸せに馴染めず、泥を啜ってでもあの暴力の熱量を求めることを。
自分が自立という名の「独りぼっちの地獄」を、自ら選ぶであろうことを。
「……あの方の、計算通り、なんですね」
ティナの声は、微かに震えていた。
だが、その震えは恐怖ではなく、魂の底から湧き上がる歓喜によるものだった。
自分は捨てられたのではなかった。
この「自発的な狂気」こそが、コウタが用意した最後の、そして最も過酷なカリキュラムだったのだ。
「ティナ、本当に行くのか……? 一人になるんだぞ。誰も助けてくれないんだぞ」
泣きそうな母の声を、ティナは鋼のような意志で遮った。
「……いいえ。私は、一人ではありません。私の中に、あの方の思いがあります」
ティナは通帳と資料を、宝物のように胸に抱きしめた。
半年前、何も知らずにただ引きこもっていた自分が、いかに「家畜」として守られていただけだったか。
今なら、あの時の自分がどれほど無知だったかが痛いほど分かる。
本当の人間として生きるということは、誰の許可も得ず、自分の意志で、この完成された暴力を使いこなすことなのだ。
「お父さん、お母さん。今まで、ありがとうございました」
ティナは、かつてのニート時代のように深々と頭を下げた。
だが、その背中の筋肉は、これから始まる「一人の戦場」を予感して、狂おしいほどに波打っていた。
彼女は二度と振り返らなかった。
神が用意した、新しい檻の鍵を、彼女は自分の手で回したのだ。




