第9話 「初めての脱落者――去っていく背中」
誰もが同じ場所に立っているように見えても、
進む速さも、耐えられる重さも、同じではない。
今日、この訓練校で――
初めて“戻れない一歩”を踏み出す者が現れる。
その朝、訓練校の空気は、いつもより重く張りつめていた。
「……何か、ありますよね」
ヒナタが小声でチサに囁く。
「うん。朝の点呼、やけに静かだったし……」
候補生たちは整列し、キリサキ教官の前に立っていた。
だが、ひとつだけ空席がある。
「――報告する」
キリサキの声が、低く響いた。
「第三班所属、リョウ・カスミは、本日付けで候補生資格を返上した」
ざわり、と一斉に空気が揺れる。
「へ……?」
「返上……って……?」
ヒナタの心臓が、どくんと鳴った。
(返上……って、つまり――)
「本人の希望によるものだ。
これ以上の訓練継続は不可能と、判断した」
キリサキは表情を変えない。
「以上だ。
本日の訓練を開始する」
号令はそれだけだった。
誰もが言葉を失ったまま、持ち場へと散っていく。
◇ ◇ ◇
昼休み。
食堂の隅で、ヒナタはスプーンを握ったまま、動けずにいた。
「……リョウさん、昨日まで普通に笑ってたのに」
チサの声も、震えている。
「目隠し操縦のとき、誰よりも早く壁を見つけられてて……
“すごいね”って、言ったばかりだったのに……」
「……うん」
ヒナタは、かすかにうなずいた。
(あの人、弱そうに見えなかった。
むしろ、私よりずっと“できる人”だったのに……)
「……ねえ、ヒナタ」
チサが声を落とす。
「“無理だ”って、どうやって決めるんだろうね」
「……わからない」
でも、その“わからなさ”が、ひどく怖かった。
◇ ◇ ◇
夕方、訓練区画の外れ。
ヒナタは一人で、ロッカールーム前の通路に立っていた。
(帰るって言ってた……。
“今日の夕方の輸送艇で”って……)
扉が開き、小さな荷物を抱えた人物が姿を現した。
「……あ」
リョウ・カスミだった。
制服はすでに脱ぎ、私服に着替えている。
その顔には、少しだけ疲れがにじんでいたが、不思議と穏やかでもあった。
「……ヒナタさん、だっけ?」
「は、はい……!」
名前を呼ばれて、胸が詰まる。
「その……本当に、行っちゃうんですか……?」
リョウは、一瞬だけ目を伏せてから、ゆっくりとうなずいた。
「うん。
私ね、たぶん……“ここにい続ける方が、怖くなった”んだ」
「怖い……?」
「戦うのは怖くないよ。
でもね、“戦えるふりをし続けて、自分が壊れていく”のが、怖くなった」
ヒナタは、言葉を失った。
「……ヒナタさんは、怖くない?」
「……正直、めちゃくちゃ怖いです」
「ふふ」
リョウは、少しだけ笑った。
「それなら、きっと大丈夫。
怖いまま、ちゃんと進める人はね――
たぶん、簡単には折れない」
その言葉は、やさしくて、残酷だった。
「……私、逃げたわけじゃないんだ」
リョウは、ヒナタをまっすぐ見た。
「“生き残る場所”を、選び直しただけ」
ヒナタの喉が、きゅっと締まる。
「……はい」
「ヒナタさん」
リョウは、小さく手を握った。
「あなたは、向こう側に行けるよ。
怖がりながらでも、進める人だから」
そう言って、ゆっくりと背を向けた。
「……さようなら」
「……!」
ヒナタは、思わず叫びそうになった。
引き留めたい衝動が、胸いっぱいに膨らむ。
――でも、言えなかった。
(あの人の“選び直し”を、私が否定しちゃいけない)
通路の向こうで、輸送艇の発進音が低く響く。
リョウ・カスミは、振り返らなかった。
ただ、まっすぐに歩いていった。
◇ ◇ ◇
その夜、旧式区画。
ヒナタは、鉄塊の前に立っていたが、押す力が入らなかった。
「……生き残る場所……」
小さく呟く。
(私は……ここを、生き残る場所に選び続ける)
ゆっくりと、両手をかける。
――ギィ……。
鉄塊が、わずかに動いた。
(だったら……
あの人の分まで、進まなきゃ)
ヒナタの胸に、静かで重たい決意が積み重なっていった。
それは敗北でも、逃避でもない。
ただの「選び直し」だとしても、去っていく背中が残すものは確かに重い。
アオイ・ヒナタは、今日初めて“進まなかった誰か”の思いを背負うことになった。
それでも彼女は立ち止まらない。
選び続ける側の責任を、胸に抱いたまま。




