第82話 「入口は開いた」
扉とは、
最初から形を持っているものじゃない。
誰かが「行く」と決めた瞬間に、
世界のほうが、遅れて形を与える。
位相特別観測施設の主制御ドームは、すでに“観測施設”としての役割を失いつつあった。床下の位相安定器は悲鳴のような振動を発し、天井の投影スクリーンには、これまで見たことのない数式と警告が重なり合っている。だがヒナタの視線は、ただ一点――レイが消え、そして“応答が返ってきた場所”から離れなかった。
そこは相変わらず何もない。物理的には完全な空間だ。だが、ヒナタの胸の奥の“鍵”は、そこを「空白」とは認識していない。むしろ、薄い膜のような感触がある。触れれば破れそうで、だが確かに存在する境界。「……ここだよね」ヒナタが呟くと、チサが低く応じた。「ああ。殴るなら、ここしかない」
管制席では、研究員たちが半ばパニック状態に陥っていた。第三勢力の再侵入を想定した警戒網は機能していない。侵入アラートはゼロのまま、しかし位相干渉値だけが異常な上昇を示している。「侵入じゃない……」主任研究員が震える声で言う。「これは……“内部拡張”だ。向こうが来たんじゃない。こっちが……踏み込もうとしている」
その言葉に、ヒナタははっきりとうなずいた。「うん。レイは、連れていかれた。でも“閉じられた”わけじゃない。だったら、こちらから行ける」理論ではない。証明もない。だが、第三勢力が問いに反応し、構造を作る存在である以上、逆に言えば“問い続ける側”が構造を歪めることも可能なはずだった。
ヒナタは一歩、前に出る。警告音が跳ね上がり、制御系が一斉に赤に染まった。「やめろ!」誰かが叫ぶ。「そこは安全保障対象だ!」だがヒナタは止まらなかった。怖さはある。だが、それ以上に、“ここで止まったらレイは完全に向こう側の理屈で処理される”という確信があった。
「……レイ」ヒナタは声に出して呼んだ。祈りではない。命令でもない。ただの呼びかけだ。胸の鍵が応え、空白の一点がわずかに歪む。ほんの一瞬、光とも影ともつかない揺らぎが走り、ドーム全体の重力が不安定になる。「反応増幅!」管制が叫ぶ。「位相境界、形成開始!」
チサは即座にヒナタの隣に立った。「一人でやるなって言っただろ」その声は乱暴だが、揺れていない。「今回は、引きずり戻す。奪われる側じゃなく、奪い返す側だ」二人が並んだ瞬間、歪みは一段階、はっきりとした“面”を持ち始めた。点ではない。入口だ。
第三勢力の“意味”が、遅れて流れ込んでくる。
《……境界……未定義……》
《……侵入ではない……干渉……》
ヒナタは心の中で、はっきりと答えた。(侵入じゃない。迎えに行くだけ)その瞬間、境界は完全に固定され、空白だった場所に、奥行きのある暗がりが生まれる。中は見えない。だが“落ちる感覚”ではない。“進める感覚”だった。
「……入口だ」誰かが呆然と呟く。「本当に……開いた……」
ヒナタは一度だけ、後ろを振り返った。混乱する施設、止めようとする人々、世界の都合。そのすべてを見た上で、静かに言う。「行ってくる。戻る場所は……ここだから」チサは短く笑った。「当然だ。置いてく気、最初からねえよ」
二人が境界へ踏み出した瞬間、警報は完全に沈黙した。制御不能でも崩壊でもない。ただ、“こちらの世界の管理外”へ移行しただけだ。こうして《オルビタ》に、誰も想定していなかったものが残された。
――第三勢力でも、人類でもない。救出のために開かれた入口が。
応答点は、ついに“入口”へと変わった。
それは第三勢力の侵入ではなく、人類側からの干渉だった。
ヒナタは理解している。これは正規の道ではないし、安全でもない。
それでも、奪われた存在を「欠損」として処理させないためには、踏み込むしかなかった。
こうして物語は、事故対応でも対話でもない、明確な「救出行動」へと段階を移した。
もう戻れない一線を、彼女たちは越えている。




