第65話 「フェンスの向こうで」
境界は、
守るために引かれる。
けれどその線は、
“守られない側”の存在を、
ときに静かに切り捨てる。
深夜。
第七再生都市・特別隔離ブロック外縁部。
フェンスの外は、
まだ復興の途中にある区域だった。
街灯の数も少なく、
人通りもまばら。
それでも――
そこは、
“誰かの生活が続いている場所”だった。
◇ ◇ ◇
若い作業員の男性が、
修復用資材を肩に担ぎながら、
フェンス沿いの通路を歩いていた。
「……今日も夜勤かぁ……」
愚痴をこぼしながら、
彼は足元の端末ライトを確認する。
◇ ◇ ◇
そのとき――
彼の“影”が、
一瞬だけ、
足元から離れた方向へ伸びた。
「……え……?」
男性が、足を止める。
風もない。
照明は、一定。
なのに、
影だけが、
“ずれる”。
◇ ◇ ◇
「……なんだ……
今の……」
次の瞬間。
背後で、
“足音のない足音”が鳴った。
コツ――
と、確かに“意志の重さ”だけが伝わる音。
◇ ◇ ◇
振り返る前に、
男性の体が、
ふわりと宙に浮いた。
「……え……?」
重力が、
一瞬だけ“消える”。
そして次の瞬間――
彼は、
見えない“何か”に、ゆっくりと引きずられた。
◇ ◇ ◇
フェンスの警告ライトが、
赤く点灯する。
――《外縁部・不明重力異常感知》
――《生命反応、急速移動中》
◇ ◇ ◇
隔離ブロック内部。
ヒナタの部屋。
突然、
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
「……っ……!」
ヒナタは、
思わずベッドから立ち上がる。
(……今……
“悲鳴”……)
(……声じゃない……
感情だ……)
◇ ◇ ◇
モニター越しに、
レイの声が飛び込んでくる。
「……ヒナタさん……
今……
境界外で……
人が……!」
「……分かる……!」
ヒナタは、
胸を強く押さえた。
「……引っ張られてる……
“向こう”へ……!」
◇ ◇ ◇
一方、フェンス外。
男性の体は、
宙に浮いたまま、
明確に“境界の中央方向”へ運ばれていた。
姿は見えない。
だが、
空気が“掴まれている”。
引力ではない。
命令でもない。
ただ――
“持っていく”という意志だけが、そこにあった。
◇ ◇ ◇
「……やめ……!」
男性が、かすれた声で叫ぶ。
だが、
その声は、
遠くへ引き伸ばされるように歪み、
誰の耳にも届かない。
◇ ◇ ◇
隔離ブロック内。
ヒナタは、
フェンスのほうへと走り出していた。
「……止めて……!」
護衛が、即座に進路を遮る。
「……少尉、下がってください!」
「……お願い……!」
ヒナタは、
初めて、
守る側の“壁”を、
真正面から叩いた。
◇ ◇ ◇
その瞬間。
ヒナタの胸の奥で、
“鍵”が、はっきりと回転した。
ギリ――
と、
現実の継ぎ目が軋む音。
◇ ◇ ◇
フェンスの外と内で、
“空間の重なり”が一瞬だけ発生する。
ほんの一瞬。
だが――
それで、十分だった。
◇ ◇ ◇
男性の体が、
急に“落ちた”。
地面に、激しく叩きつけられる。
「……ぐ……っ……!」
だが、
命は、まだ――
ここにある。
◇ ◇ ◇
その代わり。
“影”のほうが、
わずかに、
フェンスの内側へ、指先だけを伸ばした。
見えない指。
触れてはいない。
だが、
空気が“凍る”。
◇ ◇ ◇
《……奪えない……》
意味だけが、
ヒナタの意識に流れ込む。
《……だが……
“届く”……》
◇ ◇ ◇
ヒナタは、
その言葉に、
はっきりと返した。
「……届かせない……」
震える声。
だが――
逃げる声じゃない。
「……ここは……
私が……
“選んだ場所”だから……!」
◇ ◇ ◇
影が、
ゆっくりと、
後退していく。
フェンスの外へ。
それでも、
完全に“消えた”わけではない。
ただ――
“今は引いた”だけだった。
◇ ◇ ◇
数分後。
救助班が到着し、
男性は担架で運ばれていく。
命に別状はない。
だが――
両腕が、しびれたまま、動かないという。
◇ ◇ ◇
ヒナタは、
その様子を、
フェンス越しに見つめていた。
自分のせいで、
人が傷ついた。
それは、
“戦場”ではなく、
“日常の中”で起こった初めての現実だった。
◇ ◇ ◇
「……ごめんなさい……」
誰に向けたのかも分からない謝罪が、
小さく、こぼれる。
だがその背後で、
チサの声が、はっきりと響いた。
「……違う……」
フェンスの外側から。
「……あんたが……
“止めた”んだ……」
◇ ◇ ◇
ヒナタは、振り返る。
チサとレイが、
境界のすぐ向こうに立っていた。
「……一人……
助かった……」
「……それだけで……
今日の世界は……
ちゃんと……
昨日より……
少し……
“マシになった”……」
◇ ◇ ◇
ヒナタは、
しばらく言葉を失っていた。
胸の奥には、
まだ“影の冷たさ”が残っている。
それでも――
今日は、
誰かが……
“持っていかれずに済んだ”日だった。
フェンスの向こうで起きた最初の事件は、
静かに――
だが、はっきりと、
**“この世界でも戦いは始まってしまった”**ことを告げていた。
境界の外で、ついに最初の被害者が出た。
第三勢力は、ヒナタを直接奪えない代わりに、
周囲の人間を“引き金”として使い始めた。
ヒナタはただ守られる存在ではいられなくなり、
初めて“止めた側”としてこの現実に関与した。
これは侵略ではない。
だが、確実に“人を傷つけ始めた戦い”の始まりだった。




