第61話 「触れられない手」
守るために作られた線は、ときに、
守りたい人そのものを、遠ざけてしまう。
夜。
特別隔離居住ブロック・中庭。
ヒナタは、ガラス越しの空を見上げていた。
今日も一日、
誰の手にも触れられなかった。
声は届く。
姿も見える。
でも――
“同じ空気”には、触れられない。
◇ ◇ ◇
中庭の外側。
照明の影に、チサが立っていた。
護衛の位置。
カメラの死角。
すべて、頭に入っている。
(……一歩……
踏み出すだけだ……)
だが、その一歩が、
“規則”という名の壁だった。
◇ ◇ ◇
ヒナタが、ふと視線をこちらに向ける。
すぐに、気づいた。
「……チサ?」
ガラス越しでも、
分かる。
あの人は、
“来ようとしている”。
◇ ◇ ◇
次の瞬間。
「――少尉、
そこから下がってください」
無機質な声。
護衛の警告。
チサが、足を止める。
◇ ◇ ◇
「……やめな……」
ヒナタが、かすれた声で言う。
「……怒られる……」
チサは、歯を食いしばった。
(……それでも……)
◇ ◇ ◇
チサは、一歩、踏み出した。
警告音。
――《危険区域境界への接近を検知》
赤い光が点灯する。
護衛が、即座に動こうとした。
◇ ◇ ◇
その瞬間、
チサは、声を張り上げた。
「……触らない……!」
護衛の動きが、一瞬だけ止まる。
「……ただ……
“見失いたくないだけ”だ……!」
◇ ◇ ◇
ヒナタの目が、見開かれる。
「……チサ……
戻って……」
「……やだ」
チサは、きっぱりと言った。
「……一歩も……
近づかせないなら……」
拳を握る。
「……せめて……
“目の前”にいさせろ……」
◇ ◇ ◇
護衛が、苦悩の表情で、
通信を送っている。
「……許可……
下りません……」
その声は、
どこか人間的だった。
◇ ◇ ◇
チサとヒナタの間には、
依然としてガラスと距離がある。
だが、
目線だけが、
正面から、まっすぐに重なった。
◇ ◇ ◇
「……ヒナタ……」
チサは、低い声で言った。
「……あんた……
“危険物”なんかじゃない……」
「……世界のほうが……
びびってるだけだ……」
◇ ◇ ◇
ヒナタの目に、
じわりと涙がにじむ。
「……でも……
みんな……
近づかない……」
「……私に……
触ろうとしない……」
◇ ◇ ◇
チサは、
ガラスのすぐ手前まで来て、
そこで止まった。
ほんの数センチ先。
触れることは、できない。
◇ ◇ ◇
チサは、震える手を、
ゆっくりと、ガラスに当てた。
「……ここに……
いる……」
ガラス越しに、
掌の形が重なる。
ヒナタも、
反射的に手を上げる。
同じ位置。
同じ大きさ。
——それでも、触れない。
◇ ◇ ◇
「……あたたかい……?」
ヒナタが、小さく聞いた。
「……あたたかい……」
チサは、即答した。
「……ちゃんと……
“生きてる温度”だ……」
◇ ◇ ◇
二人は、しばらくそのまま動かなかった。
警告音も、鳴り続けている。
護衛たちは、
“介入命令”が下りるのを、
ただ待つだけの存在になっていた。
◇ ◇ ◇
やがて、
通信が入る。
――《……三十秒後、
通常配置に戻れ》
短い、妥協の許可。
◇ ◇ ◇
チサは、
ゆっくりと、手を離した。
「……また……来る……」
それだけ言って、
一歩、下がる。
◇ ◇ ◇
ヒナタは、
ガラス越しに、
強くうなずいた。
「……うん……」
そのたった一言に、
さっきまでの孤独の重さは、
確かに、少しだけ軽くなっていた。
◇ ◇ ◇
チサが、その場を離れる直前、
ぽつりと呟いた。
「……次は……
“触れる理由”も……
ちゃんと……
持ってくる……」
ヒナタは、
その意味が分からないまま、
でも、不思議と胸が温かくなった。
規則は守るためにある。
だがチサは、その規則がヒナタの心を壊すと感じた。
触れられない距離で重なった掌は、
物理的には隔てられていても、確かに“人としての温度”を伝え合っていた。
この小さな反抗は、やがて隔離体制そのものに“ひび”を入れていく。




