第58話「近すぎる影」
影は、
遠くにあるうちは怖くない。
けれど、
足元に重なった瞬間から、
それは“逃げ場のない存在”になる。
夜。
第七再生都市・仮設居住ブロック。
屋上のフェンス越しに、
ヒナタはぼんやりと街の灯りを眺めていた。
風は穏やか。
警報も、緊急通信も、何もない。
——完璧な平和。
……のはずだった。
◇ ◇ ◇
「……また……来てる……」
ヒナタは、小さくつぶやいた。
誰に言うでもない声。
胸の奥が、
じわり、と引っ張られる感覚。
昨日よりも——
はっきりと。
(……遠くじゃない……
“すぐ近く”……)
◇ ◇ ◇
「……ヒナタ?」
後ろから、チサの声。
「……どうした? こんな時間に……」
「……チサ……
“あれ”……
今日……
すごく近い……」
チサは、ヒナタの表情を見て、
すぐに笑えなくなった。
◇ ◇ ◇
二人が話している最中、
フェンス際の照明が、
ほんの一瞬だけ——暗転した。
次の瞬間には、元に戻る。
だが、
その“たった一瞬”の闇の中で――
フェンスの内側に、
“誰かの立っている気配”があった。
◇ ◇ ◇
「……今……
誰か……」
チサが警戒して、足を踏み出そうとした瞬間。
「……待って……!」
ヒナタが、強く止めた。
「……あれ……
“人”じゃない……!」
◇ ◇ ◇
次の瞬間。
フェンスの内側の空気が、
ゆっくりと“ねじれた”。
形のない歪み。
けれど、そこには確かに
“立っている意志”があった。
◇ ◇ ◇
「……ヒナタ……
これ……
第三勢力……?」
「……分かんない……
でも……
“向こう側”と同じ匂いがする……」
ヒナタの声が、わずかに震える。
◇ ◇ ◇
そのとき、
歪みの中心から、
“声にならない声”が流れ込んだ。
音ではない。
言葉でもない。
——けれど、
意味だけが、直接、脳に届く。
《……鍵……
こちらに……》
◇ ◇ ◇
「……ッ……!」
ヒナタは、思わず後ずさる。
「……今……
“呼んだ”……」
チサが、反射的にヒナタの前に立った。
「……呼ぶな……
こっちは……
もう、戦争は終わってる……!」
◇ ◇ ◇
歪みが、
わずかに揺らぐ。
《……終わったのは……
“あちらの都合”……》
再び、意味だけが流れ込む。
――チサは、凍りついた。
◇ ◇ ◇
「……レイ……!」
通信。
「……すでに……
観測室も……
異常反応……検出しています……!」
「……位置は!?」
「……ヒナタさんの……
“半径10メートル圏内”……!」
◇ ◇ ◇
「……近すぎ……」
チサの声が、わずかに掠れる。
それは、もはや“侵入”ではなかった。
**“同じ場所に、重なり始めている”**という意味だった。
◇ ◇ ◇
ヒナタの視界に、
一瞬だけ、別の風景が重なる。
星のない空。
黒い地平。
そして――
自分と“よく似た背中”。
「……っ……!」
思わず、声が漏れる。
「……今……
“私”……
見えた……」
◇ ◇ ◇
歪みが、
ゆっくりと収縮していく。
引き潮のように、
影が消え始める。
《……鍵は……
すでに……こちら側に……》
最後に流れ込んだ意味は、
“予告”だった。
◇ ◇ ◇
そして。
歪みは、何事もなかったかのように消えた。
フェンスも、照明も、夜風も、元通り。
だが——
空気だけが、
決定的に変わってしまっていた。
◇ ◇ ◇
チサは、ゆっくりと振り返り、
ヒナタの肩を強く掴んだ。
「……一つだけ、言っていいか……」
「……なに……」
「……“これ”は……
“ただの名残”じゃない……」
強い声。
「……次は……
“迎えに来る”気だ……」
◇ ◇ ◇
ヒナタは、唇を噛みしめた。
「……私……
ちゃんと……
ここにいるのに……」
「……それでも……
“向こう側”は……
あなたを……
“鍵”だと思ってる……」
◇ ◇ ◇
遠くで、夜間警報が鳴り始めた。
侵略ではない。
戦争でもない。
——だが確実に、
“次の段階に入った”音だった。
ヒナタは、夜空を見上げながら、
心の奥で、はっきりと悟った。
(……ああ……)
(……これは……
もう……
気のせいじゃない……)
“近すぎる影”は、
もう二度と、遠ざからない。
影は、観測対象から“接触対象”へと変わった。
ヒナタの半径10メートル以内で起きた干渉は、
もはや偶発的な残留現象ではない。
それは意思を持った“呼びかけ”だった。
向こう側は、ヒナタを「鍵」と認識し、
こちら側に“迎え”を送り始めている。




