第54話 「英雄じゃない一日」
英雄にだって、
歯を磨く朝があって、
空腹を覚える昼があって、
理由もなく落ち込む夕方がある。
それを“日常”と呼ぶ。
地球連合・第七再生都市。
仮設居住ブロック・三階。
ヒナタは、狭い簡易キッチンで、フライパンを見つめていた。
「……卵……また焦げた……」
黒くなった目玉焼きを皿に乗せ、ため息をつく。
「……戦場なら……
もっと難しいこと……
山ほどやってたのに……」
隣で、チサがコーヒーをすすりながら言った。
「……戦場は、“正解がひとつ”だからね」
「……え?」
「……守るか、死ぬか。
進むか、止まるか。
選択肢が少ない」
チサは、ヒナタの皿を見て苦笑する。
「……料理は……
選択肢が多すぎる」
「……納得できない……」
◇ ◇ ◇
昼前。
ヒナタは、帽子を深くかぶって外に出た。
本当なら、まだ“保護対象の英雄”だ。
だが、どうしても一人で外を歩いてみたかった。
通りには、人が戻ってきている。
屋台。
修理中の路面。
子どもたちの笑い声。
――すべて、かつて守りたかった光景。
「……戻ったんだ……」
そう思うのに、
どこか“部外者”のような気もした。
◇ ◇ ◇
八百屋の前で、
ヒナタはトマトを一つ、手に取った。
「……すみません……
これ……」
店主が顔を上げ、
一瞬、目を見開く。
「あ……あ……」
次の瞬間、声がひっくり返った。
「……え!?
あ、あの……
アオイ・ヒナタ……!?
生きて……!」
周囲の視線が、一斉に集まる。
「……あ……
ち、違……
その……」
ヒナタは、言葉に詰まった。
◇ ◇ ◇
「……写真……いいですか!?」
「……本物だ……!」
「……英雄……!」
一気に集まる人だかり。
善意なのに、逃げ場がない。
(……息……
できない……)
ヒナタは、無意識に一歩、後ずさった。
◇ ◇ ◇
「……ちょっと、すみません」
そのとき、人混みをかき分けて、
チサが割って入ってきた。
「……彼女、
“英雄の勤務時間”は、
もう終わってます」
妙に堂々とした声。
「……今は……
“買い物中の一般人”です」
一瞬、沈黙。
それから誰かが、気まずそうに笑った。
「……あ……
そう……ですよね……
すみません……」
人の輪が、ゆっくりと解けていく。
◇ ◇ ◇
屋台の裏手。
ヒナタは、しゃがみ込んでいた。
「……ごめん……
チサ……」
「……なにが?」
「……私……
ただ……トマト……
買いたかっただけなのに……」
声が震える。
「……それだけなのに……」
◇ ◇ ◇
チサは、黙ってヒナタの隣にしゃがみ、
買ったばかりのトマトを一つ、差し出した。
「……買えたから……
あとは……食べるだけ」
ヒナタは、驚いたように見てから、
小さく受け取った。
「……ありがとう……」
ぱくっと、一口。
「……すっぱい……」
「……生きてる味でしょ」
「……よく分かんない……」
それでも、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
夕方。
三人は、簡易住宅の屋上に並んで座っていた。
赤く染まる空。
遠くで、再建用ドームが光っている。
「……今日……
なにか……
すごいこと……あった?」
ヒナタが、ぽつりと聞く。
「……目玉焼きが……
失敗した」
チサが即答する。
「……トマトが……
買えた」
レイが静かに続ける。
ヒナタは、しばらく考えてから言った。
「……それ……
すごい一日だね……」
◇ ◇ ◇
沈む夕日を見ながら、
ヒナタは、胸の奥に残るざらつきを感じていた。
戦場では、
守れたか、守れなかったか。
だが、ここでは——
(……私は……
どうやって……
“普通”を守ればいいんだろう……)
その答えは、
まだ、見えなかった。
けれど——
今日という一日が、
確かに“生きた証”として、
指先に、トマトの冷たさとして残っていた。
英雄でなくても、一日は腹が減るし、買い物にも失敗する。
ヒナタは今日、戦場とは違う形で“守れなさ”を知った。
誰かに見られる自分と、ただ生きたい自分の間で、
彼女はまだ、上手に呼吸ができていない。
だが、焦げた卵とすっぱいトマトの味は、
確かに“生きている時間”そのものだった。




