第38話「戻るために失うもの」
何かを取り戻すとき、人は必ず何かを失う。
それが等価であるとは限らない。
少女は今日、“帰還”という言葉の裏に隠れた本当の意味を知る。
第三勢力艦・深層訓練区画。
医療カプセルから降りたヒナタは、まだ足元が少しふらついていた。
「……さっきの訓練……
私、戻れなくなりかけましたよね……」
イリオスの背中に、そう問いかける。
「その通りだ」
振り返らずに返る、静かな肯定。
「……私……
あのまま行ってたら……」
「君は“戦場には戻れた”。
だが、“日常には戻れなかった”」
ヒナタの喉が、ひくりと鳴る。
「……それが……
“代価”ですか……?」
「いいや。
それは、まだ“入口”だ」
その言葉に、胸の奥が静かに冷えていく。
◇ ◇ ◇
イリオスは、ゆっくりと歩き出した。
ヒナタも、その横に並ぶ。
「君が帰還するために必要なのは、“十分な速度”だけではない」
「……他にも……
失うものが……?」
「正確には――
“失われていくもの”だ」
イリオスは、歩みを止め、ヒナタを見る。
「君はすでに、自覚しているはずだ」
「……?」
「訓練のたびに、
過去の記憶が、わずかに遠くなる感覚を」
ヒナタの胸が、きゅっと締まる。
(……言われてみれば……)
チサの顔。
ユウの声。
訓練校の日々。
思い出すことはできる。
だが、どこか――
“距離が生まれ始めている”気がしていた。
「……それ……
気のせいじゃ……」
「ない」
即答だった。
「君の神経回路は、
“戦場に最適化”されつつある」
「……最適化……」
「平穏、怠惰、遅さ。
そういったものが、優先度から下がっていく」
ヒナタは、拳をぎゅっと握った。
「……そんなの……
嫌です……」
「嫌でも、進む」
容赦のない言葉だった。
◇ ◇ ◇
「……でも……」
ヒナタは、震える声で言った。
「……私は……
帰りたいんです……」
「知っている」
「……戻って……
また……
みんなと……」
言葉が、途中で詰まる。
「……笑ったり……
喧嘩したり……
普通に……」
ヒナタの目に、涙が滲んだ。
「……戦場に最適化された人間が……
そんな日常に……
帰れるんですか……?」
イリオスは、しばらく沈黙した。
「……理論上は、可能だ」
「……理論上……」
「だが、その成功例は――
この艦の記録には、存在しない」
無言の宣告だった。
◇ ◇ ◇
ヒナタの視界が、にじむ。
「……じゃあ……
私……」
「二つに一つだ」
イリオスは、はっきりと告げる。
「完全に“向こう側”へ行くか。
あるいは、“向こう側に行ききる前に戻るか”」
「……戻りきる前……」
「そうだ。
だが、その場合、君は――」
一瞬、言葉を選ぶように、間があった。
「今よりも、
はるかに“弱い”状態で戻ることになる」
ヒナタの胸が、どくんと鳴る。
「……弱く……?」
「速度も、感覚も、受け流しの精度も。
すべてが、現在途中段階のまま“固定”される」
「……それって……
半端なまま……?」
「そうだ」
◇ ◇ ◇
ヒナタは、長い沈黙の末、ぽつりと呟いた。
「……私……
それでも……
帰りたいです……」
イリオスの視線が、わずかに鋭くなる。
「……“勝てない”可能性が高いぞ」
「……それでもです」
「……“守れない”可能性もある」
「……それでも……帰ります」
ヒナタは、はっきりと言った。
「……戻って……
“強くなり続ける道”より……」
一度、深く息を吸う。
「……“一緒に弱くなる道”のほうが……
私は……選びたいです……」
その言葉は、
強さを捨てる宣言であり、
同時に――
人であることを選ぶ宣言でもあった。
◇ ◇ ◇
イリオスは、長く目を閉じた。
「……興味深い選択だ」
「……怒ってますか……?」
「いいや」
静かな、そしてどこか苦い声。
「君は、
《バスター・エクリプス》に最も相応しい適合者だ」
「……」
「だが同時に――
最も“使わない”適合者でもある」
ヒナタは、小さく笑った。
「……それ、
褒めてます……?」
「記録上は、最大級の矛盾だ」
「……だったら……
矛盾のまま、帰ります」
その笑顔は、今までで一番、
人間らしいものだった。
代価とは、失う覚悟そのものだった。
アオイ・ヒナタは今日、“強くなりきる未来”ではなく、
“弱いまま帰る未来”を選び取った。
それは敗北でも、逃避でもない。
人であることをやめないという、静かな抵抗だ。
だが、戦場はその優しさを、まだ許そうとはしていない。




