第32話 「帰るための速度」
速くなればなるほど、
戻る道は、細くなる。
少女は今日、帰還と喪失の分かれ目に立たされる。
第三勢力艦・深層訓練区画。
ヒナタは、透明な床の上に立っていた。
その下には、星の海がそのまま広がっている。
「……落ちたら?」
思わず、そう聞いた。
「死なない」
イリオスは即答した。
「ただし、“戻れなくなる”可能性はある」
「……それ、死ぬより怖くないですか……?」
イリオスは答えない。
だが、それが肯定であることは、分かった。
◇ ◇ ◇
「今日の訓練は、“連続省略移動”だ」
「……昨日の、あれを……続けてやるんですか……?」
「そうだ。
一回が偶然でも、二回目は“技術”になる」
床の向こうに、無数の光点が並ぶ。
一つ一つが、“移動先”の指定点。
「制限時間、三秒」
「……多くないですか……?」
「三秒で、十回移動しろ」
「…………え?」
ヒナタの思考が、完全に止まった。
(昨日一回で、あんなに……
今日は、十回……?)
「君が帰るためには、それが“最低条件”だ」
イリオスの声は、容赦がなかった。
◇ ◇ ◇
開始。
世界が、音を失った。
一歩目。
視界が、引き裂かれる。
二歩目。
身体の内側が、裏返る。
三歩目。
自分が、世界に置いていかれているような感覚。
(……だめ……
速すぎる……)
だが、止まれない。
四歩、五歩。
(……チサ……
今も……戦ってる……)
六歩目。
鼓動が、追いつかなくなる。
(……ユウ……
まだ……寝てるのかな……)
七歩目。
視界が、白く弾ける。
(……戻るって……
言ったのに……!)
◇ ◇ ◇
八歩目で、世界が反転した。
上下も、距離も、前後も、意味を失う。
(……あ……
これ……戻れない側……)
体温が、消えた。
九歩目。
自分が、“自分の身体の外”にいる感覚。
「……ヒ……ナ……?」
誰かの声が、遠くで歪む。
十歩目――
ヒナタの意識が、完全にほどけた。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき、ヒナタは医療カプセルの中にいた。
全身が、鉛のように重い。
「……あ……
生きてる……?」
「死にはしないと言ったはずだ」
イリオスの声。
「……でも……
今の……やばかったです……」
「そうだ。
今の君は、“帰還可能速度”の上限に触れた」
「……限界……」
「一歩でも踏み越えれば、
君は“戦場には戻れるが、日常には戻れない存在”になる」
ヒナタの胸が、静かに凍る。
「……それって……
人じゃなくなる、ってことですか……」
「人の定義から、外れる」
淡々とした言葉だった。
◇ ◇ ◇
ヒナタは、しばらく沈黙した。
そして、小さく笑った。
「……それでも……
私、帰りたいです」
「……戻れる保証はない」
「……それでもです」
イリオスの視線が、初めてほんのわずかに揺れた。
「……なぜ、そこまで戻りたい」
ヒナタは、胸に手を当てた。
「……私の席が……
たぶん……まだ、空いてるからです」
それは、確信ではない。
だが、信じたい“距離”だった。
◇ ◇ ◇
「……よろしい」
イリオスは、静かに言った。
「では次から、“戻る前提の限界訓練”に移行する」
「……はい」
ヒナタの声は、弱い。
けれど、確かに前を向いていた。
(……速くなりすぎない……
戻れなくならない……)
それは、戦場で誰も教えてくれなかった“別の勝ち方”。
ヒナタは今、
“帰るために、あえて限界を踏み越えない”という戦いを選び始めていた。
速さは、人を守る力にも、日常を破壊する刃にもなる。
アオイ・ヒナタは今日、自分が“戻れなくなる速度”に触れた。
それでも彼女は踏み越えなかった。
戦うためではなく、帰るために。
少女の速度は今、ただの速さではなく、“約束の方向”を向き始めている。




