第30話 「音速の境界線」
速さとは、力ではない。
それは、世界との“ズレ”だ。
少女は今日、そのズレの向こう側を、ほんの一瞬だけ覗く。
第三勢力艦・特殊訓練区画。
ヒナタは、何もないように見える白い床の上に、一人で立っていた。
「……今日は、“反応”ではなく“移動”の訓練だ」
イリオスの声が、静かに響く。
「受け流し型は、最終的に“位置”そのものを操作する戦い方になる」
「……位置……」
「避けるのではない。
“そこにいなかった”という結果を作る」
ヒナタは、ごくりと喉を鳴らした。
(……言ってること、だんだん人間じゃなくなってきてない……?)
◇ ◇ ◇
「目標地点を示す」
床の向こう、五十メートル先に、淡く光る一点が出現する。
「ここまで移動しろ」
「……五十メートル……」
全力疾走でも、数秒はかかる距離。
だが、イリオスは淡々と続けた。
「制限時間、〇・三秒」
「…………はい?」
思わず聞き返した。
「ヒナタ、人間の反射神経だけで動くな」
「……え……?」
「“来る未来側”へ、先に身体を置け」
意味が、完全には分からない。
だが、なぜか――
戦場で、何度もやってきた感覚と、重なる。
(……敵が来る“先”に……
私、いつも……立ってた……)
「……やってみます」
◇ ◇ ◇
開始の合図はなかった。
次の瞬間。
床そのものが、低く唸る。
――《空間負荷、上昇》
ヒナタの足元が、重く、そして軽くなった。
(……今だ……)
ヒナタは、“蹴った”という感触すら感じないまま、前へ出た。
視界が、歪む。
白い世界が、一瞬で“流れる線”に変わる。
(……速い……
自分が、自分じゃない……!)
鼓膜が、内側から圧迫されるような感覚。
けれど――
(……止まれ……)
ヒナタの意識が、“もう一歩先”にブレーキをかけた瞬間。
――彼女は、目標地点の“すぐ手前”に立っていた。
◇ ◇ ◇
「…………え……?」
自分の足を見る。
確かに、五十メートル先。
だが、走った実感が、まるでない。
「……成功だ」
イリオスの声が、遅れて届く。
「……今の……
何が……起きたんですか……」
「音速の一割を、越えた」
「…………はい?」
完全に思考が止まった。
「だが、完全な加速ではない。
“移動そのもの”を、短時間だけ“省略した”に近い」
「……省略……」
「戦場では、君はこれを無意識でやっていた」
「……え……」
ヒナタの胸が、どくんと鳴る。
「死神の鎌を避けたとき、
君はすでに“そこにいなかった”」
その言葉に、あの日の記憶が蘇る。
振り下ろされた斬撃。
壊れたはずの距離感。
それでも、当たらなかった事実。
(……私……
逃げたんじゃなかった……)
◇ ◇ ◇
だが、次の瞬間。
急激な脱力感が、全身を襲った。
「……っ……」
ヒナタの足が、がくりと崩れる。
「……予測済みだ」
イリオスが、静かに支える。
「今の移動は、心拍・呼吸・神経伝達のすべてに過負荷をかけた」
「……頭……
割れそう……」
「当然だ」
イリオスは、淡々と告げる。
「今の君は、“人の身体”のまま、
“人外の置き方”をした」
(……そりゃ……しんどいわ……)
◇ ◇ ◇
医療カプセルの中。
ヒナタは、天井をぼんやりと見つめていた。
「……私……
どこまで……行かなきゃ、帰れないんですか……」
ぽつりとこぼれた本音。
イリオスは、しばらく沈黙してから答えた。
「“帰れる速さ”ではなく、
“死なない速さ”を手に入れるまでだ」
「……死なない……」
ヒナタは、静かに目を閉じた。
チサの顔。
ユウの声。
まだ戦場にいる、仲間たち。
(……私は……
戻るために……
“生き残り続ける速さ”になる)
その決意は、恐怖よりも、ずっと静かで、ずっと強かった。
速くなることは、前へ進むことではない。
生き残る位置へ、先に移動することだ。
アオイ・ヒナタは今日、人の身体のまま“人外の一歩”に足をかけた。
それは力の進化ではなく、生存概念そのものの変化だ。
少女は今、帰るために、“死なない速さ”へ変わり始めている。




