第17話 「再起動――それでも、私はここにいる」
止まった時間は、戻らない。
泣いた夜も、壊れた心も、なかったことにはならない。
それでも朝は来る。
少女が立ち上がるかどうかとは、関係なく。
目を覚ましたとき、ヒナタはしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
白い天井。
規則正しく点滅する小さなランプ。
(……医療ブロック……)
全身が、ひどく重かった。
筋肉痛と、昨日までの疲労と、そして――心の中に残った、鈍い痛み。
(……泣いたんだ、私)
旧式区画で、ひとりで。
情けない声を出して。
立ち上がれないほど、悔しくて。
思い出した瞬間、胸の奥が、また少しだけきしんだ。
「……起きてる?」
カーテンの向こうから、控えめな声。
「……チサ」
カーテンが開き、チサがそっと顔をのぞかせた。
「よかった……。
朝の点呼、ギリギリ間に合うって」
「……点呼」
ヒナタは、ベッドの端に手をつき、ゆっくりと体を起こした。
「……今日は、休んでもいいって言われてない?」
「言われてないね」
「だよね……」
少し安心した自分に、ヒナタは苦笑した。
(逃げ道、用意されてないんだ……)
◇ ◇ ◇
訓練場。
いつもと変わらない整列。
いつもと変わらない朝の点呼。
けれど、ヒナタの中では、すべてが少しだけ違って見えていた。
「――アオイ・ヒナタ」
キリサキ教官の声が、名を呼ぶ。
「……はい」
「本日より、貴様は“底辺ルート・再調整フェーズ”へ移行する」
周囲が、ざわつく。
「再調整……?」
「……降格、みたいなもの?」
ヒナタの心臓が、一度だけ強く打った。
(やっぱり……落とされる、よね)
「出力、判断、感応反応。
すべての基礎値を、もう一度ゼロ基準で組み直す」
キリサキは、ヒナタだけを見て、続けた。
「理由は一つだ。
貴様は――“折れたまま戦う癖”がついた」
(……ばれてる)
「泣くなとは言わん。
だが、“泣いたまま前に出る”のは、一番危険だ」
「……はい」
「まずは、“立っているだけの自分”に戻れ」
その言葉は、厳しかったが、不思議と拒絶には聞こえなかった。
◇ ◇ ◇
再調整フェーズ初日。
ヒナタに与えられたのは――訓練用ヴァルキュリアにも乗らない、完全な徒歩訓練だった。
「……宇宙パイロットの訓練で、徒歩って……」
ヒナタは、小さく呟きながら、広大な演習フィールドを走らされていた。
「走れ。
息が上がった状態で、周囲を見ろ」
「は、はいっ……!」
視界が揺れる。
呼吸が乱れる。
脚が重い。
(また……できないことばっかり……)
だが、そのとき。
「――止まれ」
キリサキの声。
ヒナタは、よろめきながら立ち止まった。
「今、何が聞こえる」
「……え?」
「心臓か。
それとも、風か」
ヒナタは、乱れた呼吸の向こうに耳を澄ませた。
「……風、です」
「そうだ」
キリサキは、短く言った。
「昨日までは、貴様は“自分の音”しか聞いていなかった」
ヒナタは、はっとする。
(心臓の音……
焦りの音……
怖さの音……)
「それが聞こえているうちは、戦場は見えん」
キリサキは、背を向けた。
「走れ。
“世界の音”が、自然に戻るまで」
◇ ◇ ◇
夕方。
ヒナタは、すっかりへとへとになって、訓練場の端にしゃがみこんでいた。
「……もう……動けません……」
そこへ、ユズハがスポーツドリンクのボトルを放ってよこす。
「はい。生存補給」
「……ありがとうございます……」
一気に飲み干すと、少しだけ視界がはっきりした。
「……昨日さ、ヒナタ」
ユズハが、ぽつりと切り出す。
「“越えられない”って、言ってたでしょ」
「……言いました」
「でもさ」
ユズハは、ヒナタを真っ直ぐ見た。
「越えられないなら、避ければいいんだよ」
「……え?」
「正面からぶつかるだけが、“越える”じゃない。
回り道でも、時間がかかっても、
先に“違う景色”に立てば、それはもう越えてる」
ヒナタは、その言葉を、ゆっくりとかみしめる。
(……回り道……)
「ヒナタはね」
ユズハは、少しだけ笑った。
「最短ルートじゃない。
でも、“折れない最長ルート”を選び続けてる。
それ、めちゃくちゃ厄介だよ」
ヒナタは、思わず小さく笑った。
「……褒めて、ます?」
「最高に」
◇ ◇ ◇
夜。
ヒナタは、旧式区画の鉄塊の前にいなかった。
代わりに、訓練場の端で、ひとり、ゆっくりと深呼吸していた。
(……今日は、押さなかった)
でも、不思議と、不安は少なかった。
(泣いても、負けても、折れても……
私は、ちゃんとここに戻ってきた)
それだけで、今は十分だった。
遠くで、星明りが訓練校の外壁を照らしている。
ヒナタは、胸に手を当て、小さく呟いた。
「……それでも、私は……
ここに、いる」
その言葉は、決意というより、確認に近かった。
泣いた翌朝も、世界は何も変わらずに動き出す。
アオイ・ヒナタは、壊れた心を抱えたまま、それでも再び整列した。
立ち直ったわけじゃない。
強くなったわけでもない。
ただ――戻ってきた。
それだけで、この日は「再起動」と呼ぶに足る一日だった。




