088. 人魚の情動
チェリーとキウイの新居で和やかに繰り広げられる二人の会話を聞きながら、オニキスは穏やかにわずかに目を細めていた。
チェリーが淹れた紅茶の茶色い液体を眺めながら、オニキスが静かに呟いた。
「ルリは……サクラとうまくやっているだろうか」
反射的に「大丈夫ですよ」と答えようとしたキウイは、ふと言葉を引っ込めた。
先日の、ルリの情欲が暴走して、サクラの身体中に赤い痕をつけてしまった事件が、生々しく脳裏をよぎったからだ。
あの時の痕はもう綺麗に消え、あれからルリが暴走した様子はなかった。
それでも、またあのようなことが起こりかねない、絶妙なバランスの上で二人の関係が成り立っているのは事実だった。
「……万事がうまくいっていると、確信を持って言うことはできません。それでもお二人は支え合って日々を過ごしていらっしゃいます」
そこでキウイは一度言葉を区切って、オニキスの瞳をまっすぐに見据えて、強く言い切った。
「そして、我々もお二人のために、できる限りのことをして精一杯支えたいと、心からそう思っています」
キウイがそう言うと、オニキスはルリとサクラの間に何か問題があったことを察したように答えた。
「そうか……世話をかける。申し訳ない」
「……これが私たちの仕事ですから、どうかお気になさらないでください」
本音を言えば、キウイは単に仕事だからというだけで、ルリに対する様々な献身的行為をしているわけではなかった。
個人的にもルリを気に入っていて、入れ込んでいる部分があるのは事実だった。
しかしオニキスに余計な気苦労をさせないよう、あえて「仕事だから」と表現した。
それをオニキスも察し、ただ静かに礼を述べた。
「……ありがとう」
オニキスは紅茶のカップを静かに置き、深く息を吐いた。
そして、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……ルリがまだ里にいた頃、随分前から入れ込んでいる人間の娘がいることは、スフェーンから聞いて全てを把握していた」
キウイは、仲の良い姉妹であるルリとスフェーンの様子を思い起こした。
ルリは仲のいいスフェーンには隠すことなく全てを相談していたのだろう。
そしてスフェーンなら、当時のスフェーンにとっては未知の人間という存在に焦がれるルリを心配して、オニキスとパールに相談するのは自然の流れだ。
「突然、里を出ていったのには驚いたが……ルリの想いを応援しようと、私もパールもそう決めた」
オニキスのその言葉には、心配しつつも娘の意志を尊重したいという、母としての深い苦渋が滲んでいた。
「人間と人魚……常識も身体の構造も違う二人がつがいになるには様々な壁があるだろう。だが我々には見守ることしかできない……」
オニキスは歯痒そうにそう言った。
キウイは今この機会こそ、ルリの情欲の暴走の問題を解決し得る、まさに千載一遇のチャンスだと確信していた。
ルリのいない場で、人魚の身体に詳しいルリの母と直接話せる機会など、今後あるかどうかもわからない。
今ならオニキスからの話の流れで自然に切り出すことができると考えた。
下手な言い方をすれば、ルリの極めてプライベートな問題を、配慮を欠いた形で露呈させることになってしまいかねない。
それはキウイの望むことではなかった。
だが、このまま問題を放置すれば、いずれルリとサクラの未来に暗い影を落とすことになる。
ルリの専属メイドとして、宮廷魔術師として、そして何より二人の幸せを願う者として、今、自分が動かなくてはいけない。
キウイは覚悟を決め、慎重に言葉を選びながら、オニキスに問いかけた。
「……っ、オニキス様……解決策があるなら、お伺いしたいことがあるのですが……」
「聞こう」
オニキスはキウイをまっすぐに見つめて、すぐに短い返事をした。
キウイは促されるまま、質問を続けた。
「オニキス様の仰る通り、『身体の違い』は私たちにとっても最大の懸案事項です。人間であるサクラ様のお身体は、人魚であるルリ様と比較して、あまりにも脆いのです」
キウイの真剣な様子に、オニキスは深く静かに聞き入った。
「先日、ルリ様の愛情の深さゆえに、サクラ様のお身体に……負担をかけてしまう出来事がありました。幸い、その時は大事には至りませんでしたが……何度も続くようなら、今後どうなるかはわかりません」
その言葉に、チェリーはキウイが何を質問しようとしているかを察し、心配そうな表情でキウイを見つめた。
「もし人魚の生態として、その……情動を穏やかに保つための知恵などありましたら、ご教授いただけないでしょうか」
キウイがそう言葉を締めくくったのを聞いて、オニキスは深く溜め息をつきながら呟いた。
「やはり……ルリはまだ駄目だったか」
その様子に、キウイは真剣な面持ちで質問を続けた。
「心当たりがあるのですか?」
「何が起こったか想像はつく。キウイの言う『情動』は人魚が愛する者を欲する本能そのものだ」
オニキスはキウイに、ルリに発生している問題の、その根源を明かした。
「これはパールが長年かけて突き止めたことだが……人魚のルーツはセイレーンという魔物だ」
その魔物はキウイも魔術書でその名を知るものだった。
「セイレーン……その美しい声で気に入った者を魅了し、水底に沈めて我が物とする魔物ですね」
「そうだ。若い人魚は理性が未熟で、魂に刻まれたセイレーンの衝動に負けてしまうことがある。興奮した拍子などに、愛する者への感情が愛情の枠を超え、野性的な独占欲や支配欲に達してしまう」
キウイはその初めて耳にする驚愕の事実に、思わず息をのんだ。
隣に座るチェリーがその残酷さに戦慄し、キウイの腕を強く掴んできた。
チェリー自身、恋人であるキウイを深く愛しているからこそ、その事実は理解しがたい恐怖としてその心を深く抉っていた。
「普通に育てば『情動』の対象は最も愛を注ぐ者……親になる。ルリ以外の娘たちの『情動』は私とパールが受け止めたが、ルリにはそれがなかった」
オニキスの言葉に、ある可能性を思いついたキウイは、それを確認するようにチェリーに視線を向けた。
「チェリーさん……サクラ様と長年のお付き合いのあるあなたなら、サクラ様とルリ様がいつ頃出会ったか、ご存知ですか?」
「私が専属メイドを始めた五歳の時には、サクラ様は落ち込んだら庭園に行く癖がありました。庭園の中に私たちは入れないので中の様子はわかりませんでしたが、庭園から出てくると、いつも表情を明るくしていらして……今思うと、恐らくルリ様とお話してらっしゃったのだと……」
チェリーの言葉を受けて、キウイは線と線が着実に繋がっていくのを感じていた。
「であれば、二人はそれより幼い時に出会った可能性が高いですね。そして……ルリ様は以前、ずっとサクラ様とつがいになりたかったとおっしゃっていました……」
「……やはりルリは親ではなくサクラを……その対象にしていたのか」
オニキスの放った言葉に、しばらくの沈黙が部屋を支配した。
「……スフェーン様は、常に穏やかであられるのですが……何か違いがあるのでしょうか」
「年齢を重ねて理性が育てば、自然とセイレーンの情動に打ち勝てるようになる」
キウイは事態を飲み込むように深く息を吐いた後、納得するように呟いた。
「なるほど、そういうことなのですね……。スフェーン様とアヤメ様は同じ問題に悩んでいないようだったので、気にかかっていたのです」
キウイの言葉に、オニキスは静かに頷き、自らの手を見つめる。
その目線の先でまるで過去を光景を思い起こしているかのように語った。
「私には親がいなかった。だから私は若い時に『情動』の対象として、パールを……パールは辛抱強く耐えてくれた。パールには本当に感謝しかない……」
オニキスはゆっくりと目を閉じた。
それは若き自分を受け止めてくれたパールに捧げる感謝の祈りのようだった。
「そう……なのですね。ご教授いただきありがとうございます。……確認なのですが、例えばルリ様の理性を鍛えて差し上げれば、セイレーン『情動』に打ち勝つことは可能ですか?」
キウイの質問に、オニキスは考え込むように少しの間目線を下げて押し黙った。
そして、キウイをまっすぐに見据えて、静かに告げた。
「……試してみる価値はあるかもしれない」
オニキスの言葉に、キウイの表情に希望が宿る。
「……であれば、今私がルリ様と行っている魔力制御訓練が……役に立つかもしれません。ルリ様は今、毎日のサクラ様の魔力譲渡に依存していらっしゃる状態です。ルリ様と私は今、その状況を改善するべく、魔力制御訓練を行なっています。以前の問題の時も、事の発端は魔力譲渡だったと伺っていました。この特訓の成果が出れば、ルリ様の『情動』を抑えるのに一役買うかもしれません……っ」
希望を持ったキウイに、オニキスがほんの少しだけ頬を緩める。
「ルリを……よろしく頼む」
しかしオニキスは、表情を引き締めて、静かに語った。
「しかし……人魚の『情動』の問題がなくても、全く違う個がつがいになるのは難しい。多くの壁に突き当たるだろう。私とパールも、互いに心地いい距離感に至るまで長い時間を要した」
そこまで言って、オニキスは寄り添って座るチェリーとキウイを見て、申し訳なさそうに目線を落とした。
「……すまない、これからの幸福な暮らしに希望を抱いている二人にする話ではなかったな」
そんなことを言うオニキスに、キウイは優しく微笑み、首を振った。
「いいえ……とても貴重なお話を聞かせていただいてありがとうございます。サクラ様とルリ様だけでなく、我々も……これから多くの壁を乗り越える必要があるでしょうから」
キウイはそう言いながら、隣に座るチェリーの手に、そっと自らの手を重ねた。
驚いて自分の方を見るチェリーのワインレッドの瞳を見つめて、ふわりと微笑みかける。
どんな壁があっても、いつまでも、一緒に。
そんな決意が、キウイの瞳には込められていた。
「さて、そろそろ……ルリ様たちの公務が終わる頃と思います。私たちも仕事に戻りましょうか」
そう言うとキウイは、ソファからゆっくりと立ち上がった。
隣に座るチェリーも立ち上がり、オニキスに声をかけた。
「オニキス様も、ルリ様たちの私室でお待ちください。パール様の会談が終わったら、そちらにお迎えに来ていただくことになっていますから」
キウイは部屋の壁にかけてあったエプロンをハンガーから取り、丁寧に袖を通して、腰の後ろで紐をきゅっと引き締めた。
ヘッドドレスを頭に乗せ、しっかりと固定する。
ゆっくりと目を閉じて、私情を払うように、深く息を吐く。
目を開けて背筋を伸ばすと、すっかり板についた、ルリの専属メイドの顔になっていた。
その瞳の奥には、先ほどオニキスから託された、どんな困難があっても主たちを支え抜くという、揺るぎない覚悟が静かに灯っていた。
同じように身支度を整えたチェリーと顔を見合わせて、静かに頷く。
「さあ、行きましょう」
キウイは、力強く、それでいて優しく呼びかけた。
オニキスのセリフをいかに短くするか、オニキスが出る度に戦っているのですが……キウイがいるとすごく楽でした……!
キウイのセリフで補完すればいいので。
キウイの引っ越し話に三話もかかってしまいました。
まあ、最後のは引っ越しの話ではなく、ルリの話なので……。
最後の、キウイが専属メイドに変身する描写がお気に入りです。
次は裏で行われていたローズとパールの会談の様子をお届けします。




