081. 甘美な陶酔からの脱却
コーグ公国から帰国後の次の日の朝、サクラは重い眠りの底から、いつも通り部屋の扉がノックされる音で目を覚ました。
全身が鉛のように重い。寝台に沈み込んだ身体を必死に起こした。
「っ……」
深く吐いた息とともに、サクラの脳裏に昨夜の出来事が鮮明に蘇る。
目に入った自分の太腿についた赤い跡――ルリの愛の証を見て、胸の奥に熱いものが込み上げ、サクラは思わず目元を赤くした。
昨夜、理性を失ったようにサクラの全てを求めてきたルリに対し、サクラは身体も心も全て捧げた。
その結果がこれだ。サクラには見えなかったが、ネグリジェから覗いている首筋や背中も、同様に激しい痕になっているだろうと推測できた。
「ど、どうしよう、サクラ……っ」
このままだと自分の激しい衝動の跡が他人の目に触れることを悟ったルリは、今にも泣き出しそうな、焦るような声を出す。
サクラはその声を聞いて、不思議と逆に頭が落ち着いていた。ルリの純粋な動揺が、昨夜の熱が残ったサクラの身体の緊張を解いたようだった。
「……まあ、隠せるものじゃないし……前にも見られたことはあるしね。今更、気にしていても仕方ないわ。ほら、チェリーとキウイが待ってるから……入ってもらいましょう」
ルリがサクラの身体にキスマークをつけたのは今日が初めてではない。
以前チェリーがそれを見つけた時は、「あらあら」なんて茶化すように言いながらサクラをからかった。
今回もきっと、軽く笑われるだろうけど、それで終わるだろう。この程度のことは、もはや日常の一部だ。サクラは心の中でそう割り切った。
サクラは深く息を吐くと、意を決したようにノックに返事をした。
「おはようございます、サクラさ、ま……」
部屋に入ってきたチェリーは、すぐに状況を理解したのだろう。
ネグリジェ姿のサクラの肌に、首筋から胸元、そして太腿に至るまで全身に、鮮明に残された赤い痕と、その横で顔を青ざめさせているルリの姿を見て、言葉に詰まったまま、息をのんだ。
チェリーのその反応に、サクラは心の中に確かな不安の影が宿るのを感じた。
そして、ルリの藍色の瞳には既に、大粒の涙が浮かび始めていた。
チェリーに続いて部屋に入ってきたキウイは、部屋の状況とチェリーの表情を見て、一瞬で全てを察したようだった。
「自分のせいだ」という強い後悔と焦燥が、キウイの表情を一瞬だけ曇らせたが、すぐに冷静な顔を取り戻す。
「……っ、……おはようございます、サクラ様、ルリ様。……チェリーさん、サクラ様のドレスを、もう少し露出の低いものに変えて差し上げたほうが、よろしいのではないですか」
その的確で落ち着いた声を聞いて、混乱していたチェリーは、はっと我に返った。
「あっ……、そう、ですね……。私、お持ちしたドレスを取り替えて参ります……っ」
チェリーはドレスを抱えてぱたぱたと部屋を出ていった。
部屋の中をしばらくの居心地の悪い静寂が支配する。
キウイがその重い静寂を打ち破って声を上げた。
「……あの……昨日の私の発言のせい……ですよね。不用意な進言をしてしまい、申し訳ありませんでした……っ」
キウイの謝罪の言葉を聞いて、ルリがふるふると首を振り、必死に否定した。
「ちがう、ちがうの……っ。キウイは、わたしたちのために、いってくれたんだもん……っ。ぜんぶ、わたしがわるいのっ。わたしが……わたしのせいで、サクラが、こわれちゃう……っ」
ルリは、自分の行いを後悔するように、サクラを力いっぱい抱きしめた。
そのサクラを抱きしめる腕の力には、サクラを傷つけてしまった罪悪感と、自分の制御できない愛によってサクラに見放されてしまうことへの切実な恐れが込められていた。
その藍色の瞳からは、ぽろぽろと涙が溢れ出していた。
「キウイ……ねぇ、おしえて……っ。わたし、どうしたらいいの……っ」
ルリが救いを求めるようにキウイを見ながら絞り出した声に、キウイは一瞬、迷うような表情を見せた。
それは、主であるサクラとルリの繊細な関係性に踏み込むことへの躊躇いと、今ここで自分が言わなければ二人を救えないという使命感が、激しくせめぎ合っている顔だった。
しかしすぐにその迷いをしまい込み、深い息を一つだけ吐いて、感情を断ち切った。
そして、厳格なまでに冷静な宮廷魔術師の顔になって、ルリを見つめた。
「ルリ様……一つだけ、試してみる価値があることが、あります。ルリ様がサクラ様をどうしようもなく求めてしまうのは、愛情を欲しているだけでなく、毎晩、ルリ様の身体がサクラ様の魔力譲渡を必要としているのも大きな一因と考えています」
キウイは、ルリをまっすぐに見つめて、この状況を解決するための確固たる提案の言葉を放った。
「ルリ様、魔力の制御を覚えましょう。私が制御方法を教えます」
キウイは静かに続ける。
「ルリ様は現在、感覚で魔法を使っていらっしゃいます。そうではなく、ご自身の魔力の流れを完全に理解して、厳格な管理のもと、意識的に魔力を消費するようにするのです。……これは簡単な話ではありません。ですが、ルリ様は魔力感知能力に大変優れています。ルリ様ならきっとやり遂げられるはず、私はそう確信しています」
サクラは、コーグ公国でキウイから掌を経由して魔力譲渡された時のことを思い出した。
あの時、キウイは、キウイ自身の魔力を厳に管理し、制御していると言っていた。
まるで水の流れを水門で統制するかのような、途方もなく厳なる管理。
現状の、ルリの感覚的な魔力消費とは正に対極的なその魔力の制御術を、キウイはルリに伝授すると言っているのだ。
キウイは論理的な説明を尚も続ける。
「ルリ様は魔力生命体……生きるために魔力を消費します。その際に、ルリ様の中のサクラ様の魔力を、なるべく消費しないようにするのです。そうすれば、毎晩サクラ様から魔力譲渡されなくても、問題なくなるはずです」
キウイの提案は、ルリの苦痛を終わらせる、二人の未来にとって魅力的な提案の筈だった。
だが、サクラはそれを、自分とルリの特別な繋がりを断ち切る、恐ろしいもののように感じとった。
ルリに全身全霊で求められることは、サクラにとって存在証明のようなものだった。
それが否定され、サクラは頭が真っ白になるような感覚に囚われる。
思わず、ルリに縋り付くように否定の言葉を放った。
「わ、私っ……ルリに求められても全然辛くないわ……っ。ルリ、そんなの、ルリが覚える必要なんて、ない……」
その言葉を遮るように言葉を放ったのは、キウイだった。
「サクラ様っ……。ルリ様から依存されるのは大変に心地いいでしょう。しかし、サクラ様のお身体に取り返しのつかないようなことがあったら、一番お辛いのはルリ様自身なのです……っ」
キウイの言葉にサクラは、胸を打たれたような衝撃を受け、はっとした。
ルリに求められている快感と、自分が必要とされている優越感に溺れ、サクラはルリ自身の苦痛と、涙を流すほどの真剣な想いから目を背けていたのだ。
その身勝手な愛の形に気づかされ、サクラは全身の血の気が引くのを感じた。
自分の浅い考えを見透かされ、呆然とするサクラに、キウイは静かに、しかし胸に訴えかけるように続けた。
「これからサクラ様は『時魔法の真髄』へと至り、ルリ様と悠久の時を歩まれるのでしょう? その中で一日たりとも離れずに暮らしていくのは困難です。ルリ様を本当に愛しておられるならば、これは、いずれお二人で越えなければいけない壁なのですよ……」
キウイの言葉はサクラの胸に深く突き刺さった。
その衝撃は、サクラの「求められたい」というエゴが、二人の幸せな未来を妨げているという罪を糾弾するかのようだった。
なんて自分勝手で、ルリとの未来を見ていない考えをしていたのだろうと、サクラの胸はきつく締めつけられた。
「あ……私っ……。ごめんなさい、ルリ……っ」
「サクラ……」
サクラの言葉に、ルリは言葉を返すことはしなかった。その代わりに、愛しさと感謝を込めて、ただ静かにそっと抱きしめた。
キウイは、まるでサクラの心の奥の不安を覗いたかのように、声を優しくして続けた。
「大丈夫です、サクラ様……。ルリ様が魔力の制御を覚えたとしても、ルリ様の中のサクラ様の魔力は、消えることなく、そこにあり続けます。ただ、消費をしなくなるだけです。決してお二人の繋がりが消えるわけではありません」
キウイはそこまで言うと、わずかに言葉に詰まらせ、自責の念に駆られるように、少し目線を落とした。
「……っ、私、実はこの提案を……ずいぶん前から自分の中で思いついてはいたのです……。でも、お二人の特別な関係を壊しかねないと、踏み込むことを躊躇っていました」
そう語るキウイの瞳は、いつもの冷静な光を失い、深い後悔の色に揺れていた。
「……それは、ひとえに私の弱さ故です。そしてこの事態は、勇気を出しきれなかった私の、中途半端な発言が原因に他なりません。本当に、申し訳ありませんでした」
キウイのあまりにも真摯な気遣いと、自分を責めるような言葉に、サクラは胸が痛くなった。
優しすぎるキウイの言葉に、サクラは改めて自分の行いを反省した。
「キウイ……ねぇ、顔を上げてちょうだい……。キウイがそんなに気に病む必要は何もないのよ……。私たちに必要な現実を教えてくれて、むしろ感謝しかないわ。本当にありがとう。……私、ルリが頑張ろうとしているのに、私の身勝手で……ルリにも無理をさせてしまったわ。ごめんなさい、ルリ……」
サクラは、ルリの無限の欲望を引き出し、それを自分が引き受けることこそが、ルリへの愛の最善の表現だと思って疑わなかった。
だから、情欲を制御しようとしているルリを、逆に煽って火をつけてしまったのだ。
サクラは、ルリへの愛を示すための自分の行いが、ルリの苦痛の原因になってしまったという残酷な事実に直面し、胸を痛めた。
「サクラ……わたし、サクラとずっとずっと、いっしょにいたいから……いっぱいがんばるよ……っ」
ルリの決意の言葉に、サクラとルリはもう一度、強く抱きしめあった。
二人は、お互いの身体の熱と一緒に、お互いの決意を分かち合い、確かなものにした。
キウイは胸に手を当てて力強く頷き、先ほどまでの自責の念を一掃するように言い切った。
「ルリ様の魔力制御の特訓の場を手配しておきます。この私にお任せください。必ず、お二人の未来を輝かしいものにしてみせます」
キウイは静かに、不敵に笑ってそう宣言した。
サクラはその様子に、ただひたすらに揺るぎない頼もしさを感じた。
これで、全てがうまくいく。サクラは未来への希望を胸に、静かに頷き返した。
しばらくすると、チェリーが代わりのドレスを持って部屋に帰ってきた。
チェリーがサクラのために持ってきたドレスは、柔らかいレースで首も腕も全て覆ってくれる、肌の露出を厳に制限しながらも、優しいデザインのドレスだった。
サクラはチェリーにそのドレスを優しく丁寧に着付けてもらいながら、この部屋にいる皆の優しさに支えられていることを、じんわりと温かく実感した。
お待たせしました。今日から毎日更新を再開します。
まずは帰国後の次の日、サクラとルリの話からです。
チェリーとキウイの話を心待ちにしていた人はすみません。
チェリーとキウイの話は、次の話になります!
色々思うところがありまして、新しい章に切り替わるこのタイミングで、地の文をサクラの一人称から三人称に変えることにしました。
しばらく違和感あるかもしれませんが、よろしくお願いします。
「人魚と姫」の更新をお休みしている間に、無事に短期連載が完結しました。
「姫君は人魚に愛される 〜政略結婚から逃げたら、人魚の娘に求婚されました〜」全11話です。
切ないながらもハッピーエンドの甘い百合です。
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