6. キス、イヤなの……?
朝日が窓から差し込み、温かい光を広げていく。遠くで聞こえる鳥のさえずりを聞きながら、私はゆっくりと目を覚ました。
布団から身体を起こし、伸びをする。そこで、部屋に置いてあるバスタブが目に入った。
瞬間、昨日の怒涛のような出来事を思い出した。そうだ、私はこの部屋でルリと暮らすことになったんだ……。
昨日は高鳴る心臓になかなか寝付けなかったが、いつの間にか意識を手放していたらしい。
なるべく音を立てないように立ち上がり、バスタブの中をそっと覗き込む。昨日のルリの弱々しさから、泡となって消えたりしていないか心配だったが、昨夜見たのと変わらず、底に沈んで眠っていた。
顔はいたって穏やかで、水底なので寝息の音はしない。けれどもし聞こえるとしたら、幼子のように可愛らしい寝息なのだろう。
わざわざ起こす必要もないので、声をかけることはしなかった。
窓辺に置いてある花に目をやる。時止めの魔法の効力が弱まっているのを感じたので、花に向かって手を翳しながら、静かに魔力を練り上げた。
練り上げた魔力で花を包み込み、魔法の効力がしっかり効きなおしたのを確認して、魔力の流れを断ち切った。
その時、後ろで、ぱしゃんと水が跳ねる音がした。
「おはよー! お花に魔法をかけ直したの?」
気づいたらバスタブから上半身だけ身を乗り出したルリがこっちを向いていた。
「おはよう。そう、数日おきに時止めの魔法をかけ直さないと、魔法が解けて枯れてしまうから」
昨日の魔力切れの時の弱々しいルリの姿はどこにもなく、いつもの太陽のような笑顔を振りまくルリに戻っていた。その様子に、昨日からずっと胸の奥にあった不安が、すっと消えていくのを感じた。
「もう魔力切れは大丈夫なの?」
「うん! 海の水には、魔力がいっぱいあるんだよ。この水入れてた瓶、ある?」
水を入れてあった瓶は、昨日水を出した後に、部屋のテーブルの上に置いてあった。それを取って、ルリに渡す。
ルリは、バスタブの中の水を操り、元通りに小瓶に水を戻した。窓辺からふりそそぐ光をきらきらと反射しながら動く水は、まるで宝石のようだった。
「それ、瓶の大きさと、入ってる水の量があってないわよね? どうやって入れてるの?」
「瓶は普通なんだけど、水を入れる時に、魔力でぎゅーってしたら、ぜんぶ入るんだよ!」
身振りも混じえて一生懸命説明してくれているのだが、私にはその仕組みを理解するのは難しかった。
昨日の結界抜けの話の時も思ったが、ルリは感覚で魔法を操っているようだ。宮廷魔術師のキウイなら、この要領を得ない説明でも、何かしら情報を得られるのかもしれない。
「ねえ、サクラ? 昨日はキスできなかったね……」
「へっ!?」
なんの前触れもなく、ルリがそんなことを言った。あまりにも突然だったので、一瞬、心臓が止まりそうになる。
「子ども、作らなきゃだもんね? じゃあ、キスしよっか?」
そう言いながらバスタブから身を乗り出したルリは、人魚の尾のままでは、私のもとまで来られない。上目遣いでまっすぐ私を見つめる姿は、まるで親鳥からの餌を待つ小鳥のようだった。その純粋な視線に、私の心臓は、とくん……と音を立てる。
「……っ、ルリ……」
キスをするのを躊躇っていると、ルリは不安そうに瞳を潤ませる。
「サクラ、キス、イヤなの……?」
ルリのその言葉に、はっと我に返った。
ルリは、私のために、世界の未来のために、必死に頑張ってくれているのに。私は自分の心臓の高鳴りや、戸惑いにばかり囚われていた。高鳴る心臓は苦しいけれど、それは決して、ルリを拒絶したいからではない。
「イヤとは違うの……っ!」
私は、バスタブに入っているルリに一歩近づき、まっすぐ目を見て言った。
「ただ……人間にとってキスって、子どもを作るだけの行為ではないの。もっと、こう……愛情を確かめあうためのもので……。予言のため、子作りのため、そんな気持ちではやりたくないのよ」
胸が苦しい。熱い感情がどんどん込み上げてくる。
「だから、もう少し、ゆっくり、お互いの気持を確かめあって……それから、キスしたい……なんて、私は、そう、思って……っ」
息が上がり、顔は火照っている。高鳴る心臓は自分のものではないようだ。
「サクラの気持ち……教えてくれて、ありがとうっ! じゃあ、サクラがキスしたくなるまで、待つね!」
ルリの顔からは、不安な表情が消えていた。ルリは、私の必死の告白を、まっすぐ受け取ってくれたのだとわかった。思いが伝わったことに、ほっと胸を撫で下ろす。
だが、安堵と同時に、恥ずかしさで頭が真っ白になる。こんなに正面から、自分の心の内を人にさらけ出したのは、生まれて初めてかもしれない。
「おなかすいたね〜。今日のごはんは何かなあ?」
ルリが無邪気な笑顔でそんなことを言うので、私もつられて笑みがこぼれた。
「ふふっ、ルリは人間の食事が気に入ったのね」
「待つ」……そう言ってくれたルリに、早々に答えなければいけない。
そうは思いつつも、これから始まるルリとの新しい日常に、胸が高まるのを感じたのだった。
キスの話をしばらく引っ張ります。その間、初々しい二人をお楽しみください。