30. 嫉妬と、負の魔力
「ルリに……私のルリに近づくなっ!!!」
「スフェーン……姉さま……っ!」
その人魚――スフェーンさんの瞳は、私への憎悪で満ちていた。ルリを誰にも渡すまいとしているのか、ルリを強く抱きしめている。その腕の力に締め付けられてルリが痛みに顔を歪めているのに、スフェーンさんは気づいていないようだった。ただただ、自分のものだと示すように、ルリに近づくものを拒絶する言葉を、呪いのように何度も何度も呟いている。
「スフェーン、何ということだ……! 確かにルリとスフェーンは歳が近いのもあって、姉妹の中でも一際仲がよかったんだ。でもまさか、あのように醜い嫉妬の言葉を向けるなど……」
アメジストさんがスフェーンさんの方を見やりながら、焦りと困惑を滲ませた声をあげる。
「負の……とてつもない負の魔力が、スフェーン様から溢れ出ています。まるで、何か悪いものに魅入られてしまったかのような……」
アヤメはスフェーンさんの方から目を離すことなく、見えない何かを紐解くように呟いた。その表情には、彼女を救ってあげたいという慈愛の眼差しが宿っている。
「あの様子は、本来のスフェーンさんじゃないってこと……?」
私はアヤメの言葉から導き出した予想を口にした。それであれば、アメジストさんの困惑している様子にも合点が行く。
『サクラ……! なんだかスフェーン姉さまがおかしいの! このままだとサクラを傷つけちゃうから、はなれててほしい……!』
ルリからの魔法通話が届く。私の中で、スフェーンさんの身に何かが起きているということが、予想から確信になった。
ルリは私への心配を真っ先に口にした。スフェーンさんからきつく締め付けられて痛みを感じている筈なのに、自分のことより私のことを優先してくれている。ルリの優しさに、心臓がぎゅっと締め付けられるようだった。
スフェーンさんの憎悪の目は、的確に私を射抜いていた。ルリを置いていくのが気がかりだが、このままこの場にいても私にできることはないのも確かだった。
『わかった。離れた場所にいるから、何かあったら、絶対に呼んでね……!』
『わかった、ありがとうサクラ!』
ルリに魔法通話で返事をして、アメジストさんとアヤメに声をかける。
「スフェーンさんの暴走は、私が原因のようですね。一旦離れましょう。いいわね、アヤメ?」
「でも、ルリお姉様が……!」
アヤメが苦しむルリを指さし、不安げな目で私を見つめる。
「スフェーンさんとルリは仲が良いのでしょう? 私が離れて、元のスフェーンさんに戻れば、きっと大丈夫よ」
そう言って、私はそっとアヤメの手を引く。心の中ではルリのことが心配でたまらなかったし、ルリを置いていくのに罪悪感を感じていたが、今は最善の策を採るしかない。
「そうだな……。すまないがサクラ、スフェーンから離れよう」
アメジストさんが、苦渋の決断を下すように頷いた。
そうして、私たちは、ルリとスフェーンさんから距離を取った。
「負の魔力……って何なの?」
ルリとスフェーンさんから離れながら、私はアヤメに尋ねた。
「私にも、詳しくはわからないのですが……。本能が、そう告げているのです。もしかしたら、私の……巫女としての権能、なのでしょうか」
アヤメからは、確信のない、曖昧な答えしか返ってこなかった。
「感知することはできても、何もできないなんて……。私は、なんて無力なのでしょう……」
アヤメはそう言って、悔しそうに目を伏せる。ここが海ではなく陸の上だったなら、大粒の涙を零していたことだろう。
「そんなことはないわ、きっと何か手はあるはずよ。負の魔力のことを教えてくれてありがとう、アヤメ。一緒に対処法を考えましょう」
私はアヤメを引いている手に力を込め、ぎゅっと握りしめた。アヤメに対する言葉ではあったが、それは自分に対する激励と祈りでもあった。何か解決手段がみつかりますように。心の中でそう思うことしか、私にはできなかった。
サクラたちがルリとスフェーンから離れた時。
「ふふ……ふふふっ! ルリ、悪いニンゲンはいなくなったわ! ルリ、ルリ……」
興奮した様子のスフェーンを落ち着けるために、ルリはそっと彼女を抱きしめていた。
「姉さま、だいじょうぶだよ、わたしはここにいるよ……」
そう優しく囁くルリは、先ほどからずっと顔色が悪い。しかし、興奮し錯乱状態になっているスフェーンはそのことに一切気がついていない。
(さっき……イヤな魔力、スフェーン姉さまから出てた……どういうことなの……それに)
先ほどまでスフェーンに締め付けられていた腕は赤くなっているが、そのことに関しては、ルリは何とも思っていなかった。息が上がっていて、身体全体に倦怠感がある。それは、先ほど負の魔力を全身いっぱいに浴びてしまった時から感じているものだった。そしてそのことにより、ルリは焦燥感に苛まれていた。
(ダメ……なんで……? はやく、はやくサクラに……)
ルリは自分の中の焦りに抗うように、弱々しく声を絞り出した。
「スフェーン……姉さま、おうちに……行こうっ。ねぇ?」
そうしてなんとかスフェーンを家まで誘導すると、ルリは寝床の一際大きな貝に彼女を寝かせた。
「ほら、スフェーン姉さま、おやすみだよ……」
ルリはそっと、スフェーンの額に手を当てる。その手が淡く光を放った途端、スフェーンの意識は途絶え、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
(これでしばらく、だいじょうぶのはず。このあいだに……)
ルリはもう、一刻も早くサクラの元へ行きたかった。本能がそれを求めていた。
ルリは急いでその場を離れると、全身の力を振り絞って、サクラの元へ泳いでいった。
『サクラっ……! 今からそっちに行くから……、待ってて』
ルリから魔法通話が入ったのは、私たちがスフェーンさんから離れて、しばらくしてのことだった。
『ルリ、大丈夫!? スフェーンさんはどうなったの?』
『スフェーン姉さまは、おうちでねてるよー。つかれちゃったみたい』
その言葉に安堵したのも束の間、切羽詰まった様子のルリがあっという間に私たちの元にやってきた。
「アメジスト姉さま、アヤメ、ごめん! ……ちょっとサクラを、かりるね!」
ルリはそれだけ言って、驚くアヤメとアメジストさんの声も聞かず、私の手を引いてどこかに泳いでいく。
「ちょっと、ルリ!?」
「ごめん……ついてきて」
ルリは多くを語らなかった。でも、その顔色は悪く、様子がおかしい。魔力が切れたのかと思ったけど、魔力切れ特有の、淡い発光はしていないようだった。ルリの様子からただ事ではないことを察し、私は抵抗することなくルリに手を引かれるまま泳いでいった。
そうして人気のない物陰に着くと、ルリは私の背後にある壁に手を置き、逃げ場を塞いだ。不意にルリの手が私の頬に触れる。
突然の出来事に、私の心臓は大きく跳ねた。
「魔力を……サクラの魔力をちょうだいっ」
その声は震えていて、まるで何かに追い立てられているようだった。
私の鼓動が、うるさいくらいに鳴り響く。
ルリの藍色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。いつもの天真爛漫なルリではなく、まるで飢えた獣のような光を宿している。
「ルリ、どうしたの……? まだ今日の補充の時間はきてないでしょう?」
夜になって魔力が切れてくると補充を求められるのは常日頃からよくあるが、昼間から求められるのは初めてのことだった。それに、いつもより余裕がないように見える。
「わかんないっ……あのぞわぞわするイヤな魔力に、すわれちゃったのっ! サクラの魔力だけ、ぜんぶ!」
そう言ってルリはいつもより乱暴に、私の唇に自分の唇を押し付けた。身体の奥から温かい魔力が、ルリへと流れ込んでゆく。ルリはまるで渇いた喉で水を求めるように、私の魔力が空っぽになるまで、夢中で魔力を吸い上げ続けた。
その頃、眠っていたスフェーンの耳に、誰かの声が聞こえてきた。
「ほら……起きなさい。あなたのルリちゃんが、大変よぉ……?」
不意に聞こえてきたそんな声に、スフェーンはゆっくりと目を開いた。たしかにその声は聞こえてきたのに、周りには誰の存在も感じることができなかった。
得体のしれない胸騒ぎが、スフェーンを突き動かす。直感が告げる方へと、無我夢中で泳いでいった。
そうして、そこで。
スフェーンが見たのは、サクラと密着し、激しく口づけするルリの姿だった。
「あぁっ……! あぁああ……あああぁぁああああ……っっ!」
スフェーンは、心臓がガラスのように音を立てて砕け散ったような感覚に陥った。
美しい髪を乱し、悲鳴とも絶叫ともつかない声を上げる。その心は激しい嫉妬の色に染まり、黒く濁ってゆく。
「ルリ、るりっ……私のルリがあああぁぁああああるりるりるりるり」
スフェーンの悲しみと憎しみに呼応するように、一帯が負の魔力に染まってゆく。一度溢れ出した感情は、もう止まらなかった。
そしてその様子を、冷たい笑みを浮かべながら見る者がいた。
「ふふふっ……あはははははっっ!! うまくいったわぁ……。もっと私に喰わせてちょうだい、その醜い感情を、もっともっと……!」
恍惚な笑みを浮かべたその者の顔は、酷く歪んでいたが、それを視認できる人は誰もいなかった。
スフェーンさん、ちゃんと救われるのでご安心ください……




