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人魚と姫 〜私達が結婚すると、世界が救われる!?〜  作者:
第六章 ナデシコの国

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143. 二人きりの、秘密のお箸特訓

 フィオーレ城の一角にある使用人用食堂。

 高い窓から差し込む午後の光が誰もいないテーブルを白く照らしているその空間は、昼時の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 チェリーはその片隅で皿の上に置かれた数粒のナッツと真剣な面持ちで対峙していた。


 その右手に握られているのは、ナデシコの国で使われている『箸』という食器だ。

 二本の細い棒。ただそれだけの道具が、今のチェリーにとっては複雑なからくりよりも扱いが難しい。


 チェリーを含む王族の付き人としてナデシコの国へ訪問予定の使用人は、使節団として粗相のないように厳しい指導を受けた。

 挨拶の仕方、道の歩き方、そして伝統的な衣装の着用方法。

 他のことは問題なく頭に入れることができたが、箸の使い方だけは別だった。

 指先の感覚だけでこの棒を操り小さな食べ物を摘むなど、フィオーレ王国の食文化で育ったチェリーには至難の業だった。


(私はサクラ様の専属メイドという重責を担っているのです。できないだなんて言うことはできません)


 そんな使命感からチェリーは貴重な休憩時間を使い、一人特訓に励んでいた。


 つるつる滑る表面を箸先で慎重に捉える。

 指先に神経を集中させ、ゆっくりと力を込めて――。


 ――ぱちんっ!


「あっ……!」


 無情な音とともに、ナッツが勢いよく弾け飛ぶ。

 机の上を転がって床へと転がり落ちそうになるナッツに慌てて手を伸ばし、すんでのところでその小さな実を指先で押さえ込んだ。


「はぅ……難しいですねぇ……」


 がっくりと肩を落としながら、捕まえた大切なひと粒を丁寧に皿の上に戻した、その時だった。


「練習熱心ですね、チェリーさん」

「うひゃあっ!?」


 聞き慣れた、そして何度聞いても心弾んでしまう落ち着いた声。

 その愛しい響きとともに、背中から柔らかな温もりがチェリーを包み込んだ。

 驚きのあまり喉からは気の抜けた声が漏れる。

 指の間からするりと落ちた箸が、硬い机の上で跳ねてからんと音を立てた。


 耳元にかかる甘く穏やかな吐息。

 そして鼻先を掠めたのは、最愛の妻キウイがいつも纏っている涼やかな古書とインクの香りだった。

 不意打ちの抱擁に跳ね上がったチェリーの心臓は、全身にじわりと広がる幸福感を浴びて、別の意味で激しく脈打ち始めた。


「も、もう、キウイさんっ! おどかさないで、普通に話しかけてくださいよ……っ」

「ふふ……すみません。チェリーさんの愛らしい声が聞きたくて、つい」


 キウイは悪びれる様子もなく、チェリーを抱きしめる腕にさらに力を込めた。

 耳たぶまで真っ赤に染めながらも、その心地よい重みに身を預ける。

 されるがまま温もりを堪能していたチェリーだったが、ふとした疑問が脳裏を掠めて小さく首を傾げた。


「それにしてもキウイさん、どうしてここに?」


 食事の時間はとうに過ぎ、湯気も食器の触れ合う音も消えたこの場所に足を運ぶ用事などないはずだ。

 不思議に思ったチェリーが尋ねると、キウイは優しく目を細めて答えた。


「先ほど厨房の前を通りかかったときに、ヘーゼルさんに呼び止められたのです。何やら抱え込んでいるチェリーさんのことを心配しておられましたよ」


 その言葉を聞いてチェリーは合点がいった。

 このナッツを箸で掴む練習法を授けてくれたのは他でもない、宮廷パティシエである母のヘーゼルだ。

 少し前、専属メイドの仕事で厨房に立ち寄った際に、ナデシコの国への訪問を控えて箸の扱いに不安があるとつい弱音をこぼしてしまった。

 すると母が厨房にあったこの小粒のナッツをいくつか選び、練習台としてチェリーに持たせてくれたのだ。


(ヘーゼルお母様……私が自分からは言い出さないと思って、わざわざキウイさんに……)


 誰に頼ることもなく完璧にこなせるようになって、本番は涼しい顔でサクラの隣で胸を張りたかったのに。

 できない自分を心配されて、あまつさえ最愛の妻にまでその未熟さを知られてしまったことが情けなくて――けれどそれ以上に、二人からの愛情がこそばゆい。

 自分を想ってくれる母の温かさが嬉しいやら、過保護すぎて恥ずかしいやらで、チェリーは頬をほんのり赤く染め上げた。


「ヘーゼルお母様ったら……私、子どもじゃないのですから……っ」

「ふふっ……それだけ、チェリーさんが愛されているということですよ」


 キウイはチェリーの胸のうちを透かしたように穏やかな笑みを零した。


「それにしても、チェリーさんはなぜ箸を使うことに(こだわ)っているのです? スプーンやフォークを使ってもよいと指導があったではないですか」


 キウイの問いかけに、チェリーは机の上に転がった二本の細い棒を、丁寧に揃えながら慈しむように見つめた。


「そうなのですけれど……」


 実際、訪問に向けた礼儀作法の指南では、慣れない食器で拙い食事を晒すより、使い慣れた食器で優雅に振る舞うべきだと教わっている。

 それは客としての、一つの正しい在り方なのかもしれない。

 けれどチェリーの胸の奥には、それ以上に譲れない矜持があった。


「やはり……お国の文化が尊重されると嬉しいものじゃないですか。フィオーレを代表してお邪魔させていただくからには、できる限りの誠意を尽くしたいのです」


 チェリーが照れくさそうにはにかみながらも、まっすぐな想いを言葉にする。

 そんなチェリーを見つめるキウイの瞳が、熱を帯びたように柔らかく細められた。


「ふふ……それはとても大切なことですね。チェリーさんのそういうお優しいところ、私は妻として誇らしく思います」


 背中を包んでいた温もりが離れ、代わりにすぐとなりからキウイの熱い気配が近づいてくる。

 チェリーの隣にそっと腰を下ろしたキウイは、机の上に置かれた漆塗りの艶やかな箸を迷いのない所作で拾い上げた。


「箸というものは無理に動かすのではなく、指先の力を抜いて扱うのですよ」


 教えるキウイの細い指先は、まるで繊細な旋律を奏でる楽器の奏者のようにしなやかだ。


「チェリーさんは少し気負いすぎのようですね。力が入りすぎるとこのように箸先が交差してしまいます。……基本はこう。下の一本はしっかりと固定するだけでよく、動かす必要はありません。この上側の一本のみを羽のように動かして、お食事を挟み込むのです」


 言葉の通り、キウイの指が軽やかに躍動する。

 無駄のないキウイの器用な箸捌きによって、先ほどまであれほどチェリーを翻弄していたナッツが、吸い寄せられるように持ち上げられた。


「こんな感じです。……ね、簡単でしょう?」

「わあ……すごいです! キウイさん、お箸を使うのがお上手なのですね……!」


 感嘆の声を漏らし、まじまじとキウイの手元を見つめるチェリー。

 キウイはふわりと目を細めて微笑むと、隣から腕を伸ばし、チェリーの右手をそっと包み込んだ。


「ひゃうっ……」


 重なった手のひらから、キウイの確かな体温が伝わってくる。

 驚きで強張るチェリーの指先を、キウイの細くしなやかな指が優しく解いて、二本の箸を正しく添えていく。


「ほら、下の箸はこうして指の付け根を通すのですよ。そして上の箸は……いつも書き物をする時の、ペンのように持ってください。……そう、お上手です。正しく持てば二本の箸は決して交差しません」


 耳元で囁かれる落ち着いた声に、チェリーは心臓がとくんとくんと優しさに包まれたように脈打つのを感じた。

 キウイはゆっくり手を離すと、顔を赤くして固まっているチェリーに向かって愛おしそうに微笑んだ。


「力を抜いてやれば、きっとうまくいきますから」

「は、はい……っ」


 チェリーは一度深く息を吐き出し、胸の鼓動を落ち着かせた。

 キウイから伝わった手のひらの温かさを指先に集めるようにして、慎重に箸先を伸ばす。


(上の箸だけを動かして、下は支えるだけ……力を抜いて、優しく、羽のように……)


 教わった秘訣を胸の中でおまじないのように唱えながら、ナッツの側面をそっと挟み込む。

 そのまま、ゆっくりと垂直に持ち上げた。


「っ、あ……! でき、ました……!」


 二本の箸先に、しっかりと挟まれた一粒。

 午後の光を浴びて軽やかに輝くそのナッツは、もうチェリーの箸から逃げ出そうとはしない。

 ほんの数センチ持ち上がっただけのそれは、チェリーにとってはナデシコの国への扉を開く、大きな、大きな一歩だった。


 ぱあっと向日葵が咲いたような笑顔で顔を輝かせ、隣に座る愛しい妻を見つめる。


「私、やりましたよ! 見てください、キウイさ――んむぅっ!?」


 弾けるような喜びを零そうとしたチェリーの唇を、熱を孕んだ柔らかさが塞いだ。

 一瞬の出来事にチェリーは驚きで目を丸くする。

 指先から力が抜け、からんとナッツが皿に滑り落ちる音が静かな食堂に小さく響いた。


 目の前ではキウイの長い睫毛が微かに揺れ、甘いインクの香りが鼻先を掠めた。


 ほんの数秒。

 けれど時が止まったかのようにも感じられた密やかな感触が離れていく。


「……っ、ん……っ! キウイ、さん、なに、を……っ!」

「ふふ、よくできました。頑張ったご褒美ですよ、チェリーさん」


 キウイは事もなげに言って、悪戯っぽく目を細めて見せた。

 つい先程までは、箸を上手く使えた達成感で胸がいっぱいだったはずなのに。

 今は顔に集まった熱のせいで、箸のことなんてほとんど吹き飛んでしまっている。


「ご、ご褒美、って……ここ、食堂ですよっ!! 誰か来たらどうするんですかっ!!」

「こんな時間に他の人が来るはずがないでしょう?」


 涼やかに声を放つキウイの唇が、赤くなったチェリーの耳元に寄せられる。

 熱を孕んだ、深い夜のような吐息が鼓膜を濡らした。


「……それでも、チェリーさんが望むのであれば……場所を変えましょうか?」

「――――っ!!」


 キウイの悪戯そうな発言に、チェリーは耳の縁まで赤くしながら逃げるように顔をふいっと背けた。


「も、もうっ! 休憩時間が終わりますからっ!! 私、お皿をヘーゼルお母様に返しに行きますっ!」

「そうですか、残念です……ふふ」


 チェリーの反応をすべて見越していたかのような、キウイの余裕に満ちた態度。

 一瞬でも本気にしてしまった自分に悔しくなってしまう。

 呆れたように溜め息をつきながらも、チェリーは差し出されたキウイの手をしっかり握り返し、寄り添うようにして食堂を後にした。






どこかで見たような展開ですね。

チェリーとキウイのいちゃいちゃエピソードはこうなりがち……!


とりあえず百合キスさせておけばいいと思ってませんか?

思ってます。不意打ちならなおのことよし。よろしくお願いします。

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