11. 海で、二人きり
「忘れるところだった! これを、取りにきたんだよね〜」
ルリが指をそっと弾くと、城で海水を入れるのに使っていた小瓶が、ぽんっと現れた。小瓶の中の海水を一度出した後、新しい海水を入れ直す。きゅっと瓶の蓋を締めると、ルリは小瓶を胸に抱きしめ、ふわりと水に溶かすように消してしまった。
「……っ。瓶が、消えた……?」
目の錯覚ではなさそうだ。唖然と瞬きする私を見て、ルリはきょとんとする。
「ん? 魔法のポケットみたいな感じだよ〜。だいじなものを運ぶのに便利なの!」
空間属性の魔法には違いないだろう。亜空間に繋がる大容量のマジックバッグなど、道具に空間魔法を適用するのはよく聞くのだが……何もないところで物を出したり仕舞ったりするのは、見たことがない。ルリはそんな奇跡のような高度な魔法を、まるで呼吸をするかのように使いこなしていた。
ルリが与えてくれたこの人魚の身体も、そうだ。今はもう私の身体の一部のように自由に動かせるけど、こんなことができるなんて、昨日までの私には想像すらできなかった。
ルリといると、今度は何が起こるのかワクワクが止まらない。
「ねえ、もうちょっと泳ごう!」
唖然とする私をよそに、ルリが楽しげに笑う。でもその誘いはとても魅力的だった。私もこの人魚の身体で、ルリと一緒にこの広大な海をもっと楽しみたいと思っていたところだ。
「いいわ、海を案内してくれる?」
「もっちろん〜!」
ルリは満面の笑みで私の手を取った。
「こっちこっち〜!」
そう言って、私の手を引いて元気よく泳ぎだす。
私たちは手を取り合い、海中探検へと繰り出した。水面から差し込む太陽のヴェールが、まるで私たちを歓迎しているかのように見えた。
潜って少しすると、イルカの群れに出会った。
イルカの方から近づいてきたので、しばらく一緒に泳ぐ。一緒になってスピンジャンプを披露すると、きゅいきゅいと笑ってくれた気がした。
「人懐っこいのね!」
「サクラのことが好きみたい!」
無邪気に笑うルリの口から何の気なしに飛び出した、「好き」という言葉。そのたった二文字に私の心臓が大きく跳ねた。
ルリが私のことを好き……ではなく、イルカが私のことを好き、という意味だとわかっているのに。
私は首を振って、心の中の勝手な期待をそっと振り払った。
「ちょっと疲れてない? 休めるところ、知ってるよ!」
ルリがそう言ったので、イルカに別れを告げて、案内に従う。
案内された先は、綺麗な珊瑚礁のリーフトンネルだった。中に入ると、どこを見ても視界が珊瑚で埋め尽くされる。
「わぁっ……!」
思わず息を呑む。
ルリが手をかざすと、珊瑚礁全体を包み込むように、ほんのり柔らかい光が灯った。すると、目の前の珊瑚たちが光に照らされて、より色鮮やかに輝き、まるで絵画のように見えた。
「こうするとキレイでしょう? ふふっ」
「ええ、本当ね……」
嬉しそうに笑うルリと目が合って、胸いっぱいに、甘い熱が広がっていく。
ルリは楽しげに歌を口ずさむ。それは言葉として理解できない、異国語のような響きの歌だった。珊瑚礁を照らす光が、歌に合わせて、まるで呼吸をするように瞬く。
ルリの歌声に吸い寄せられるようにして、私はルリへと手を伸ばした。どちらからともなく、二人で指を絡め合う。
二人で真ん中を漂うと、世界に私とルリしかいないように感じられた。とくんとくんと、鼓動がゆっくり早くなってゆく。
「ここはねぇ、わたしのとっておきの場所なんだっ。サクラと一緒に来れてよかった」
とっておきの場所に、わざわざ招いてくれた。その事実が嬉しかった。きっとルリは、私を特別に思ってくれている……。
ルリの心の中の柔らかいところに、そっと招いてくれたかのような。そんな温かい気持ちになる。
絡め合った手から、じんわりとルリの体温を感じる。指先から感じる、確かなルリという存在。ふと目が合うと、ルリはにこっと微笑んでくる。
「サクラ、きれいだね……」
また、ルリが、私を惑わしてくる。
きれいなのは、私ではなくて、珊瑚の話でしょう? そうはわかっているのに……、そんな言葉を紡ぐ、唇が、赤くて、瑞々しくて。思わず、そこに視線が釘付けになった。
ルリはそんな私の視線に気づいていないかのように、ふわりと笑う。
「ルリ……っ」
私は吸い寄せられるように、その唇に、近づいていく。その唇は、どんな感触で、どんな味がするんだろう。そんなことを考えるだけで心臓が大きく脈打ってしまう……。
その時、顔の前を、ひゅんっと何かが掠めていった。
「ひゃあっ……! びっくりしたぁ。お魚さんたち、イタズラ好きだね!」
熱帯魚が私たちの顔の間を通り過ぎて言ったようだった。
私の心臓は、どくんどくんと、音が聞こえるぐらいに脈打っていた。私、一体何を……!?
「お魚さんたち、くすぐったいよ〜っ」
魚と戯れながら、楽しそうに笑うルリ。
胸の高まりが、いつまでも収まらなくて。私は、ただただ、見つめることしかできなかった。
「ねぇ、こっちにいいものがあるみたい!」
そう言うルリに手を引かれ、どんどん深海へと潜ってゆく。
不思議と深海の仄暗い中でも、辺りを問題なく見渡すことができた。人魚の目は暗闇でも見通せるらしい。
深海の底で、淡く輝く何かを見つけた。
「これは……花、なの?」
深海に似つかわしくない、それは。花びらが優しく光る、花のようだった。
「そうなの。こういう、海の暗いところでしか咲かないみたいで、しかもすぐ枯れちゃうの。見られたの、すごくラッキーだよ!」
ルリが興奮して語る。
「ずっと咲いてたら、いいんだけどねー」
ルリの瞳に、少し寂しさが宿る。
いつもの明るく元気なルリが、こんなにも静かに、寂しさを滲ませる姿を見たのは初めてだった。その儚さに、私の心臓はきゅんと締め付けられた。
ルリが願うなら、私はそれを叶えてあげる。そんな気持ちになる。
「ルリ、私に任せて……」
私はルリの手をそっと握りしめる。私は、静かに目を閉じて、魔力を練る。私が唯一得意とする、時魔法。それは失われゆく時間を、自在に封じ込める魔法。
きらきらと光る粒子が、花を包み込むように舞い散る。悠久の美しさを約束する神秘の魔法により、花の時が止まる。
「今日のこと、この花みたいに、ずっと覚えているわ……。今日のお土産にしましょう」
「わあ、すてきっ! ありがとうサクラ!」
先程まで寂しそうにしていたルリの顔が、ぱあっと明るくなった。優しく根本を大きく掘り起こして、根をぎゅっと固める。
そして、ルリが花を優しく手で包み込むと、小瓶を消した時のように、ふわっと花が消えた。
「帰ったらいっしょに、かざろうね!」
嬉しそうに笑うルリの言葉に、私の胸は暖かい光で満たされた。
今日という日のデートは、ただ楽しいだけじゃなかった。ルリの明るさに照らされて、ルリの色とりどりの笑顔を見た。ルリといると、私の世界はどんどん色鮮やかになってゆく。
こうして二人きりの特別なデートは、最高のエンディングを迎えたのだった。
サクラちゃんと一緒にドキドキしていただけたら嬉しいです。人魚デート編、長くなってしまいました。次の話から、人間に戻ります。