10. 滝を越えて
「じゃあ、そろそろ海の方に行こうか!」
水の中でじんわりと火照る頬を隠していた私に、ルリが屈託のない笑顔を向けてきた。
「落ちる時に離れないように、しっかりつかまっててね!」
そう言うと、ルリは私を正面からぎゅっと抱きしめてきた。ルリの体温が、冷たい水で冷えた私の身体にダイレクトに伝わってくる。
突然の密着にどきっと心臓が跳ねたけど、ルリの言った言葉が理解できず、私はただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。
――落ちる……って、何のこと!?
疑問が氷解するより早く、ルリは、私をしっかり抱え込みながら、躊躇なく滝の源流から飛び出した。
「おち……っ!?」
「いっくよ〜!」
水の抵抗から解き放たれた身体は、水しぶきを切り裂いて、滝を超えて、空へと舞い上がった。
轟音を立てていた滝の音が遠ざかり、代わりに聞こえるのは、自分の心臓が激しく脈打つ音だけだ。
景色の流れがだんだん、スローモーションのようになる。その中で私は、太陽の光を浴びてキラキラしながら無邪気に笑う、ルリの笑顔を見た。私と目が合うと、いたずらっぽく「にひひ」と笑い返してくる。
「そろそろ落ちるよっ」
という言葉を、聞いた刹那。
私たちの身体は、抗うことのできない強い力――重力に引っ張られて、ゆっくりと落下を始めた。
「きゃああぁぁぁあああ!!!」
「ひゃはははははははは!!!」
私の絶叫と、ルリの歓声が混じって木霊する。
ルリの身体をめいっぱい抱き寄せる。冷たい風が肌を刺す中、ルリの体温だけが私を優しく包み込む。温かいオーラに包みこまれるのを感じた直後、無数の泡に包みこまれながら、私たちは水の中へと勢いよく落ちていった。
「たのしかった〜!!」
ルリが水から顔を出し、太陽の光を浴びた髪から水滴を飛ばしながら、満面の笑みで声を上げる。
見上げると、滝の源流は遥か上空にあり、その高さに改めて驚愕した。これだけの高所から落ちても何の痛みも感じなかったのは、ルリが魔法で護ってくれたからだろう。
「……っ、ふふっ、あはははははは!」
落ちている間は恐怖で心臓が潰れるかと思ったのに、終わってみれば、なぜだか笑いが込み上げてくる。恐怖から解放された安堵の笑いだけではない。ルリと一緒に過ごすことで、今まで王城では感じられなかった開放感を、全身で感じているからだ。こんなにも心踊る体験を、私は初めて知った。
「うひひひひっ」
ルリと私は、笑いすぎて涙ぐんだ目で顔を見合わせる。
その瞬間、水に濡れたルリの髪から流れ落ちる水滴が、まるで宝石のようにキラキラと輝いているのが見えた。太陽の光を浴びて、ルリの藍色の瞳が、まるで深海の宝石みたいに、神秘的な輝きを放っている。
無邪気な笑顔の奥にある、ルリの芯の強さや、私を守ってくれている優しさを感じて、私の胸は、とくん、と大きく鳴った。
思い起こせば、先程まで、かなり密着して、さらには抱きしめ合っていた。冷たい風の中で、ルリの身体から伝わってきた熱い体温。その腕の感触が、まだリアルに残っている。
冷静になって、その時のことを思い出したら、心臓が早鐘のようになる。心臓がどくんどくんと耳の奥で鳴り響き始めた。
「ねぇ、サクラ、楽しかったねぇ?」
ルリの真っ直ぐな瞳が、私の心を射抜く。ああ、この心臓の音が、ルリに聞こえていませんように。
「どうしたの? ……あっ、もう一回やりたい?」
何も言わない私に、ルリが思わぬことを言う。
今となっては、笑いが込み上げてくるほど楽しかったと思えるが、流石に何度も滝から落ちるというのは、心臓がいくつあっても足りなさそうだ。
「そ、それより! 海へ行くんでしょう?」
「そうだった! たぶん、もう近いと思うんだよね〜」
話を逸らすと、ルリはすぐに滝のことは忘れてくれたようだった。
ルリは私の手を引いて、再び泳ぎだす。水中で握られた手の温かさに、私の心鼓動はまた早くなる。
滝の轟音が遠くなるとともに、鼻をくすぐる潮の匂いが次第に強くなってきた。そして……。
「サクラ、海だよ!」
そう言って、ルリと二人で水面から顔を出すと、遥かな水平線まで広がる、広大な海が見えた。
水面は宝石を散りばめたようにキラキラと輝き、どこまでも続く青い世界が目の前に広がっている。初めて見る海は、まるで絵画の中に入り込んだようだった。
これが、海。これが、ルリがずっと話してくれていた、広くて温かい、故郷なんだ。
「うーん、やっぱり、魔力がいっぱいあって、気持ちいい〜!」
腕を広げて海の上に浮かんでいるルリは、全身で魔力を感じているようだった。いつの間にか、私たちの周りにはたくさんの小さな魚たちが集まってきていて、まるで二人を歓迎しているかのようだ。
その光景はあまりにも幻想的で、私はただただ、唖然としてその美しさに見惚れていた。
人魚デート編、思ったより長くなってしまっていますが、ようやく海に辿り着きました。もう少しです。