例え千里離れても。
その日の遠野家は少しばかり静かだった。特ににぎやかな長女は遠野家のムードメーカーで、彼女が静かだと家全体が静かになる。
まったくの無言ではないけれど、ぽつぽつと交わされる会話は精彩を欠き、打てば響くいつものやり取りはどこか芯を外したような空虚感を覚えた。
当然ながら怒っているわけではないし、かといって悲しんでいるわけでもない。当年とって二十歳になろうという我が妹は、兄と離れ離れになるのが寂しく、それでも泣かずに別れようと涙をこらえているのだ。
いい年して情けない、とは思わない。かく言う俺だって、なんだか胸が詰まって言葉が出てこないんだ。油断したら胸に詰まった何かが、堰を切って色んなところから溢れてきてしまいそうになる。
両親は、そんな俺達の様子を察して、ただ見守ろうという姿勢のようだ。長らく離れて暮らしていたものの、やり取り自体は定期的にしていた。であればやはり親は親、子どものことはある程度分かってくれているんだろう。
さておき、最後の日にこれじゃああんまりにもあんまりだ。今日までの間に、話したいことなどもう話し尽くしたってくらいに、まちとは色々なことを話した。
けれどそれでも、何かが足りないような気がしている。きっとこの「不足感」は、何を話したところで消えやしないんだろうけど――もっと、まだまだ、と気ばかりが焦る。
覚悟をしてきたつもりだったけど、やっぱり俺も、寂しいんだな。やっぱり俺も、まちに負けず劣らずシスコンなんだ。
リビングの隅にまとめられた手荷物に視線をやる。家から持っていく大まかなものは既に引っ越し業者に預け、後はあれを持って列車に乗るだけ。あっという間に町を離れ、触れ合うことができなくなってしまう。
そう思うとなんだか腑に落ちた。
ソファに並んで座って、肩を合わせて、互いに頭を預けて。そうして言葉も交わさないまま――時間は、あっという間に過ぎていった。
製菓学校でできた友達とは、既に別れを済ませてきた。進路は色々だけど、同じお菓子作りを志す人達。なぎさやまち、家族とも、高校時代の友達ともできない話を、心行くまで楽しんだ。やれどこそこの店で働くだの、講師をするだの独立するだの、ホテルや式場なんてのも人気らしい。広告塔に伝手がある、なんて言ったら羨ましがられたっけ。
それから、在学中には近所のパティスリーでバイトもした。基本的にはホールスタッフではあるけれど、暇な時間ができれば簡単な作業を手伝わせてもらったり、いい経験になった。店長さん始め、他のバイトの人達も交えてささやかな送別会を開いてもらった。ああいう温かな店ってのも、やっぱり憧れるよなぁ。
そうして交流のある人達との別れを済ませ、俺は地元の駅前に立っていた。
駅前に集まってくれたのは、祖父母に両親、それからまち――俺の家族。それから菊原さん、裕二、直也――高校時代の友人。加えて、恋人であるところのなぎさ。
彼らはなぎさと同じ四年制の大学生。予定を空けて駆けつけてくれた友人達に感謝を告げれば、「水くせぇ」と笑って肩を叩いてくれた。
顔つきがすっかり大人っぽくなった彼らとは、そりゃあまぁ、交流がなくなっていたわけじゃない。なんなら休日に遊ぶとなったら製菓学校の友達よりも頻度が高いくらいで、高校時代――いいや、なぎさが来てからのあの頃の、時間の濃度を思い知る。
こうして駅前に集まってくれたのだって、別に「別れの会」みたいなものをしていないわけじゃないんだ。近所の居酒屋に集まって、慣れない酒を飲み交わして、これまでのこととかこれからのこととかをたくさん話した。高校時代だったら「くせぇこと」と一笑に付していそうな、真面目な話を。
だからもう、やるべきことも語るべきこともない。ただ一言、握手と共に交わすくらいがちょうどいい。
「なぎさのことは任しといて。変なことしたらチクったげるから」と菊原さん。
「頼りにしてる。ライブとかも一緒に行ってあげてくれると嬉しい」
「店出すとき言えよ。いっちょかみしてみたい」と直也。
「まぁ、お前が忘れてなきゃな」
「連休とかあったらまた飲み行くべ。次会う時にはザルになってるはず」と裕二。
「お前初飲みの後も同じこと言ってたぞ。無理すんな。飲むな」
「衛、元気でやれよ」とじいちゃん。
「衛ちゃん、身体には気を付けて」とばあちゃん。
「これでも身体は丈夫だから。じいちゃんとばあちゃんこそ、元気でね」
「今更心配も何もないが、だからこそ……何があっても、お前の味方だ」と父さん。
「ええ。これまでの分取り返すくらいのつもりでいるから、覚悟しておいてね」と母さん。
「いざとなったら遠慮なく頼らせてもらうよ。それに、これまでだって、別に」
これまでだって別に、「放置されていた」なんて思ったことはない。例えば俺達の家庭環境を人に話したとして、世間がそれをどう評価するかも関係なく。
結果を評価するというのなら見て欲しい。立派に育った、妹の姿を。
あの頃から大人びたナリをしていたけれど、この四年で磨きがかかった。実績を伸ばしたということは、世間からの耳目を集めるということ。それはふんわりとしていたまちの印象を容赦なく研磨し、けれど彼女は少しだってその形を損なわなかった。
「おにぃ」
「泣くな。せっかくいい感じに育ったのに」
「泣いてない。泣きそう」
「まぁ、あんまり心配はしてないけどな。まちは強い子だから」
「……逆に子供扱いしてない?」
「してないしてない。……まぁ、元気でな。配信とか、見てるから」
「うん。もっと色々出て、いつでも私のこと見られるようにしたげるから」
「楽しみだな」
「私も、おにいのお店を紹介する日、楽しみにしてるから」
「頑張るよ」
最後に頭に手を添える。毎日の習慣、「がんばろう」の意味を込めて、丁寧に撫でつけた。
何も今生の別れってわけじゃない。まちがどれだけ有名になろうが俺の妹であることに変わりはないし、であれば俺も変わらずまちの兄であり続ける。関わり方はそりゃあ、色々と変わることもあるだろうけど、家族に距離も時間も関係はないんだから。
名残惜しくも手を離せば、名残惜しそうな表情を隠そうともせず、まちは一歩下がった。
一歩踏み出してくるなぎさ。俺の推し、俺の好きな、俺の恋人。
やるべきことをやり、話すべきことを話し、後は握手と共に一言交わすくらいがちょうどいい――けれど、やっぱりどうしても、ここにきてこみ上げるものがありすぎる。
それがあまりに多すぎて、喉がつっかえたように言葉が出てこない。
だから鞄から箱を取り出し、開き、なぎさに向けて差し出した。
「なぎさ、帰ったら結婚しよう」
息を呑む音が聞こえた。その出所を気にする前に、目の前のなぎさが動いた。
「いいよー」
「軽ぅっ!」
突っ込みの出所も気にしない。
指輪を手に取り、自らの左手薬指へ。見惚れるくらいの微笑みでその左手を眺める彼女に、胸の奥、腹の底から熱いものがこみ上げてくる。
高いものじゃないし、宝石の一つもついていないシンプルなものだ。なぎさに相談の一つもしないまま俺の独断で選んだその指輪に、彼女は惚けるような笑みを浮かべてくれた。
俺も自分のものを取り出し、彼女と同じように左手の薬指につける。
「なぎさのご両親には、また今度」
「うん。あ、不束者ですが」
頭を下げるなぎさに、いまだ状況についていけない関係者の中から、俺の両親が一歩踏み出しそれに応じた。
交際の時もそうだったけど、俺の決めたことにほとんど反対することがない人達だ。さっきも言っていたけど、「今更」という気持ちもあるかもしれない。けれど何より、これまでの生き方の中で信頼を培ってきた結果だと、俺は思っている。
だから今回も、笑顔でそれを祝福してくれた。
当然ながらなぎさの両親も交際を知っているし、認めてくれている。
「結婚指輪はもうちょっといいの用意したいな」
「二人で買おうよ。二人のものなんだし」
「それもいいなぁ。……まぁ、これで楽しみが増えたってことで」
「うん。これあれば、三年くらい、余裕だよ」
指輪を付けた手を俺に見せ、微笑むなぎさ。
いわば独占契約。彼女が俺の、俺が彼女の、ただ一人であるという証明。
そりゃあもちろん、二人にはまだまだ足りないものだらけ。なぎさはともかく俺はまだ独り立ちすらできていない。あれやこれや知らなきゃならない、学ばなきゃならないことは多いけれど。
「まぁ、詳しいことは追々」
「うん、追々」
ひとまず、自分のやるべきことをやろう。
色々と落ち着いたら、また自然と交わるだろう――そんな自信が、根拠もないのにそこにある。
「じゃあみんな、また」
荷物を持ち直して、皆の方に向き直り、片手をあげて別れを告げる。
背中を向けて歩を進め、改札を抜けて駅のホームへ。視界から皆がいなくなってしまうその一歩手前で、一度だけ彼らの方に振り返る。
皆が笑顔で手を振るその画を、俺は黙ってスマホに収めた。
生まれ育った町が離れていく。遠く遠く、視界から消えても尚遠く。数時間をかけて遠ざかり、俺はまだ下見に何度か訪れた程度の、慣れない街で暮らしていく。
慣れない街、初めての仕事、遠く離れた家族に恋人――不安要素を数えればきりがない。
けれどそれも、好きなものを追求した結果だ。まちに振舞うだけだったものを、推しのおかげで広がった輪の中で、ようやくそれこそが自分の「好き」だということに気づいた。
気づかせてくれたなぎさにも、それを好きでい続けてくれるまちにも、家族にも友人にも、もっともっと上手くなったスイーツで報いたい。期待に応えたい。
だから今は、胸が躍るような心地だ。
きっとこれまでのように、うまくいくばかりじゃないだろう。優しい人ばかりじゃないだろう。もしかしたら、超えられないような高い壁にぶつかるかもしれない。
それもまた、好きであればこそ。それでも諦めず続けていけば、いずれはまちやなぎさのように。
写真に写る「好き」に目を細める。
思えばたくさん撮ってきた。それはそれは色々な場所で、色々な人と、色々なものを。
どれも「これだ」と思った瞬間を切り取った一枚だ。
そして気付く、アルバムを占めるその笑顔。俺の一番の「好き」。
この為に俺は、これからも。




