好きに素直なきみと。
「あたし、実を言うとね」
駐車場の隅、薄暗がりと薄明かりの間で、俺達は影のような山を眺めながら並んで立っていた。周囲に人はなく、聞こえるのは森のざわめきとなぎさの声だけ。声が途切れたら、呼吸音までも聞こえてきそうだ。
たっぷり五秒、もったいつけて話すのは。
「まちこが大好き、なんだよね」
「……そうだな」
まったくもって、周知の事実であった。なぎさの友達なら、あるいはなぎの視聴者なら誰しもが知っている。
突っ込み放棄の相槌に、なぎさは苦笑いで応えた。
「っていうのをさ、前の学校じゃほとんど話したことないんだよ」
「え、そうなん?」
「引かれるって程じゃないんだけどさ、白けてるのがもう、肌で感じるくらいで」
「マジかぁ……それはちょっと凹むな」
「あ、そっか。そうだよね。でもそんなだからさ、正直引っ越しするのもあんまり寂しいとか残念とかなかったんよね。ちょっと冷たいかもだけど」
「まぁ、一番好きなこと話せないんじゃなぁ」
「それ。もちろんクラスにアイドルオタク、みたいな子もいたんだけど、あたしそういうんでもないし」
「ドルオタとじゃ、ちょっとかみ合わんな」
「ん。まぁ、友達はいたし、仲も良かったし、楽しいは楽しいんだけどね」
ちらりと見る横顔は、いつも通りのなぎさだ。寂しそうだとか、悲しそうだとか、そういうものを感じない淡々とした。……いや、それはけれど、いつも通りのなぎさ、ではないのか。
それが一転、破顔する。
「だからこっち来てから、ほんと楽しい。紗奈はあんなだけど、まちこの話でめっちゃ楽しそうにしてくれるし、他の子も興味くらい持ってくれるんだよね」
「へぇ。菊原さんなんかライブまで来てくれたしなぁ」
「そうそう、あの時あんな感じになっちゃったけど、ほんとビビったし、今になれば、ほんと嬉しい」
「なぎさの話が楽しいからだろ?」
「そうかなぁ? みんないい子だから……って言いたいところだけど、実際まちこが身近だからだと思うんだよね」
「あー、なるほど、それは確かに」
興味のないアイドル、芸能人の話であっても、それが身近にいるとなれば話は変わってくる。それこそ直也が、転校生が配信してると知ってその動向を追い始めたように。
それはまさしく、まちこに少しでも近づこうとしたなぎさの努力の賜物だ。その為に配信活動を頑張り収入を増やし、家族と友人に別れを告げて一人で暮らすようになった。正直、今もって俺には信じられないくらいの行動力だ。
見てわかるくらいの「好き」。けれどたぶん、それは想像を絶するくらいの。
疑問はない。だって彼女自身が言っていた。屈折した自分を変えてくれた――それは、「好き」になるのに十分すぎる理由だ。
「引っ越す前は、ライブにたくさん通えたら、って思ってたのに」
「よかったな」
「まちこと一緒にご飯行って、同じ学校に通って、お家に遊びに行って、お泊りして……ぐすっ」
「泣くなよ」
「泣くだろぉ。まだ二か月しか経ってないんだよ」
「……そうだよなぁ」
まだ二か月しか経ってない。それが本当に信じられない。今もって誰と一番近く誰と一番話すか、と聞かれれば、それはなぎさだ。元々人間関係が希薄だった、というのももちろんあるけれど、それでも暇を見つけては裕二や直也とは遊んだりしていた。
ず、と鼻を鳴らして、なぎさは「へへ」と無邪気に笑う。
「緊張はしなくなってきたけど、実は心の中ずっとこんなだよ」
「俺は結構慣れてきたけどなぁ。推しレベルが違ったわ」
「はっは。でも衛くん、確かにあんまり視聴者と話してる感はないよね」
「まちの緊張理論じゃないけど、より推してる人を見て引いたのかもしれん」
「あはは。でもほんと、知りすぎるとよくないって言うけどさ、まちこのこと、知れば知るほどもっと好きになる」
その表情が物語っている。嘘偽りなく、彼女はいつもまちへの好意を隠そうともしない。だから俺は彼女を信頼しているし、人疲れのするまちもあんなにも懐いている。
きっかけはなんだろう、と思い出そうとしてもよくわからない。色々あるし、そのどれもが「決定的」と言えるほどに俺にとっては大事な思い出だ。けれど、なぎさがまちを推す理由と同じ。
好きに素直な子は、かわいい。
俺もなぎさに人生を変えられた。内向きだった俺の生き方を、外向きに変えてくれた。十分すぎる理由だ。
話せば話すほど、溢れて止まらない。胸が詰まるような感覚に、喉が震えた。
「だから、ありがとね」
だから、その言葉に反応するのが少し遅れた。
「……え?」
「衛くんいなかったら、こうなってなかったと思うな」
疑問に思う間もなく、なぎさは微笑んだまま俺の顔を見て、目を見て、静かに語る。
「たぶん今も遠巻きに見て、ライブに通って、配信で感想言って……満足してたと思う」
「そうかな。なんだかんだ、どっかで接点はあると思うけど」
「めちゃくちゃ勇気出したんだよ。バイキングの時も、お家に行った時も、本当は逃げ出したいくらいだった」
「……まぁ、そんな感じではあったけど」
「少し強引なくらいにあたしを連れ出して、まちこの前に立たせてくれた。衛くんがいれば、まちこと一緒にいても間がもたないなんてこともないから、次も頑張ろうって思えた」
もったいないくらいの言葉。推しに近づきたいが為に妹を利用した俺への感謝。
抗弁や反論はあるけれど、なぎさはきっとそれを望んでいない――なんて言い訳で、喉に蓋をした。
「だから、ありがと」
「うん……でも、俺も」
「うん」
「ずっと学校と家の行き来ばっかで、妹のことばっかで、他に何も知らない俺が、デートに行って、ライブに行って、大人数……って程でもないのか、でも、友達と連れ立ってデイキャンプまで」
「楽しかったねー」
「楽しかったなぁ。だから、俺の方こそ、ありがとう」
「うん」
その目は、さっき泣いたせいだろうか、少し潤んでいる。旅館の灯りが横顔を照らすと、揺れたようにきらめくその瞳が、きれいだ。吸い込まれそうな心地で、それに見入った。
いわばまちを、まちこを介した関係。彼女なくしてあり得なかった、少しだけ歪な関係。
けれど俺はそれを誇らしく思う。あるいはだからこそ。
ずっと長いこと、まちを可愛がってきた。それを苦労とすら思わなかった。それに彼女は応えてくれて、少し過剰なくらいに懐いてくれて、あんなにも素直な子に育ってくれた。
そうでなかったら、こうはなっていなかった。まちがあんなにも可愛くいい子に育ってくれたらそれで十分――そう思っていたのに、こんな風に思いもよらない形で返ってくるもんだから。
「なぎさ」
「……うん」
だから、今だろう。
微笑みが消え、口をきゅっと閉じたなぎさの頬が染まっている。潤んだ目は俺をとらえて離さない。
今じゃなきゃ、嘘だろう。
言え、言うんだ。なぎさだってもう覚悟してる。答えを決めて、だからここにいる。
頭に上る熱が、喉の震えが、硬くなった身体が言葉を詰まらせる。
そんな俺の手に、なぎさはそっと握った。
「好きだ」
反射的に、口をついて出た。
「うん、あたしも」
それもまた反射のように。思いの外、想定外、あんまりにも早い返答に、言葉を失ってしまう。
「はぁ、もう、マジで、めっちゃ好き」
微笑んで、見つめ合ったまま、熱に浮かされたように言葉を重ねるなぎさの手が、俺の手の中でぐにぐにと動かされた。ああ、生きてるなぁ、なんて的外れな気持ちが湧いてきて、俺はそれに応える。
「恋人、でいいんだよね」
「そう……なる、よな」
「あはは、歯切れ悪い。でも、ほんと、あはは、にやけ止まんない」
心の底から嬉しそうななぎさに、口角が上がるのがはっきりとわかった。俺の方こそ、相当にだらしない顔をしてるんだろうなぁ。
心の底から嬉しくてたまらない。その手が動くたび、その唇が動くたび、瞳が震えるたび、実感がどんどん募っていく。
何となく、わかっていたことだけど、それでも不安はあった。修学旅行中、ずっと「いつだ」なんて、気持ちが張っていたのが今になってわかった。
ほぐれてほどけて、とけていくのがわかる。
「実はね、あの日……料理教わったあの日、聞いちゃったんだ」
「え……あ、そう?」
間の抜けた返事を笑い、なぎさは続けた。
「だから出発してからこっち、不自然だったでしょ? やたら隣にいるなぁとか、思わなかった?」
「……あー。全然わからんかった。あぁ、そうか、道理で」
やたら隣にいるなぁとは思っていたけれど、それが俺の中で本当に自然なことだったから。
「おんぶされた時とか、もうほんと、あたしの方から言っちゃいそうだったもん」
「……そっか」
「でも聞いちゃった手前、あたしの方から言うのも違うよなーって思ったし」
「それはそれで、うれしいと思うけどね」
「でも、今、めっちゃ嬉しい。ほんとに嬉しい。ああ、ヤバい、なんか色々、止まんないよ」
微笑んだままのその目から、雫が一つこぼれて落ちる。なぎさもそうだ、ずっと意識して気が張っていて、それがほぐれてほどけて、とけている。
感極まる、っていうのはこういうのを言うんだろうな。
さっきまでの頭の熱が、喉の震えが、硬くなる身体が、まるで別の意味をもっている。怖いくらいに、感情の制御が効かない。
やばい、なんか色々、止まらない。本当にその通りだ。
「これからよろしくね、彼氏くん」
「ああ、よろしく……彼女さん」
少しだけの気恥ずかしさをこらえて応えれば、なぎさはにっこりと満面の笑みを浮かべて手を握った。
強く、優しく、温かい。
外出禁止時間までもう少し。もう少しだけ、こうしていよう。言葉を交わすでもなく示し合わせたように、俺達は最初にそうしていたように視線を外して山に向けた。
俺の左手となぎさの右手を、その熱を、つないだまま。




