006●姿なき者たちの行方、そして水中ダンス
006●姿なき者たちの行方、そして水中ダンス
幽霊紳士は問いかけた。
『お嬢さんにお聞きしたいことは、今がいつなのか、ということなんだ。ここでは時計が止まって、カレンダーも無いものでね』
古めかしい軍服の幽霊紳士は、どこか困っているようだ。何らかの理由でこの海底世界にとどまり続けているが、もちろん訪れる人はおらず、自分が幽霊になってから、アマミが最初の訪問客だったわけだ。
アマミは感じ取った。
ここには、幽霊がいっぱいだ。百人……いや百柱か、もっと多い。
男ばかり、数百柱の幽霊が軍服か作業着みたいな姿で、ゆらゆらとさまよい歩き、かがんで何かを持ち上げたり、担いで歩く動作をしたり、何かの作業をしているみたいだ。
ここは、巨大航空母艦、信濃の甲板。
数百の幽霊は、この空母と運命を共にした人々だ。
『みなさん、たくさんおられるんですね……驚いた』
普通人がこの光景をリアルに観たら、背筋がゾッとするだろうな、とアマミは思ったが、もちろん顔には出さない。
霊になったかれらは生前の姿をしているが、この甲板の下には大量の骸骨が横たわっているはずだ。
『そうなのだ』と軍帽の幽霊紳士はうなずく。『我々はこの空母信濃を再び海面に浮かべるべく、全力で修理作業に傾注しているのだ。作業は遅々として進まないが、我々はあきらめない。幸い、隣に敵の新型空母が落ちてきたので、そこから使える部品を回収して、この信濃の水密区画を密閉し、そこに少しずつでも空気を貯めて、いつか船体を浮上させ、お国のために戦おうと決意しているのだ』
そういうこと……ね、とアマミは納得した。幽霊の皆さんは、まだ自分たちが死んだという確実な自覚を持っていない。だから生前の任務をそのまま全うしようと、今も働き続けているんだ……
しかし、しょせん幽霊の作業である。霊界物質の身体では、海水を少しばかり揺らす程度のことしかできない。代謝エネルギーがあまりにも少ないからだ。
せいぜい小石や砂を動かせる程度だろう。それでも多数の幽霊が協力して、幾度となく動作を繰り返せば、お隣に沈んでいるエンタープライズ号の水密ハッチやそのパッキングなどの部品を、少しずつボルトを緩めることで取り外し、何か月も何年もかけて空母信濃に運んでくることができなくはない。
空母信濃の内部に密閉区画を作れたら、今度はその中に、海底から湧き出すかすかな気泡を集めて、手のひらでつかんで、持ってこなくはならない。
気の遠くなるほど非効率な作業だ。
まさに、三途の川に面した“賽の河原”で、子供たちの霊がひとつひとつ石を積み上げるような……そんなことで、この巨大な空母信濃が海面に浮上できるようになるのは、何百年先のことだろうか。
飽くことなく作業を続ければ、いずれ幽霊たちの願いはかなうかもしれない。
しかしそのとき、潮岬沖の海に忽然と現われる空母信濃は、見るも無残な姿に朽ち果てていることだろう。
この大洋に、もう一隻、哀しい幽霊船が増えるだけだ。
アマミの胸が、きゅっと締め付けられた。
やっとの思いで、涙をこらえる。
“みんな死んでるんだから、無意味な仕事はおやめなさい”と、現実を冷たく告げれば、それで終わるだろう。
この軍帽の軍人をはじめ、だれもがその一言で自分の死を知り、絶望という言葉の意味を噛み締めて、“あの世”へと旅立っていくはずだ。
でも、それは、できない、他人の臨終を告げるなんて。
みんな、自分が死んだことを知るのは、心底辛いはずだから。
でも、今ここで、自分が告げてあげなくてはいけない、間接的にでも。
だからきっと神様が、ここへ来るように自分を導いたのだ。
浮かばれぬ幽霊さんたちに、引導を渡してあげなさい。そうしなければ、永遠にこのまま空母信濃から離れられないでしょうから……と。
悲しみを自分の心に押し込めて、アマミは言った。
『みなさん、本当にお疲れ様です。長い間、本当にご苦労様です。じつは今は、西暦1969年、昭和の44年なんです』
『……そうか』と幽霊紳士はうつむき、マリンスノーが堆積した甲板をしばし見つめたようだった。そして、幽霊だからそこにはないはずの、自分の足を。『あれからもう、25年になるのか。まったくわからなかった、我々にはあっという間だな』
感慨深く、幽霊紳士はしばし沈黙すると、改まってアマミに尋ねた。
『戦争は、どうなったのか?』
アマミは答えた。
『終わりました。あたしが生まれるずっと前に』
『そうか、そうなんだな、お嬢さん、日本は敗けたのだな、誠に慚愧の念に堪えないが』
信濃が完成して処女航海に出たとき、すでに日本の敗北は決定的だった。そのことを幽霊紳士は承知していたようだ。
『ええ、でも今は平和ですし』アマミはつとめて明るく伝えた。『ニッポンは発展してます、新幹線も高速道路もありますし、超高層ビルも建ったし、オリンピックをやって来年は万国博なんですよ!』
『ほう、オリンピックを開催できたのか。戦争で中止になったオリンピックが』
アマミは当時のテレビニュースを想い出して言う。
『五年前のことですよ。東京の空に飛行機の雲で五輪のマークを描いたんです。世界中の国から選手の皆さんがやってきました。とても賑やかでした。閉会式はみんな一緒になって踊ってお祭り騒ぎで!』
『アメリカもイギリスもかね、ソ連も……中華民国も?』
『ええ、そうです、みんな一緒で!』
『わかった……それでよい、それでよかろう。みな、これで魂の縛りがほどけるだろう』
幽霊紳士は、知りたいことが満たされて、満足したようだ。考えを決めて呼ぶ。
『先任!』
はっ、と敬礼して、目の前に作業服の幽霊が立っていた。幽霊紳士は命じた。
『命じる、只今をもって全員の軍務を解く。みなご苦労だった。爾後は各自の勝手次第、自由にしてよろしい。家に帰りたい者はそうするがよい』
“先任”と呼ばれた兵士の幽霊は、ここにいる幽霊集団の作業リーダーのようだ。
再び敬礼して命令を復唱すると、もやっ、と姿がぼやけ、いずこへともなく去ってゆく。
あたりを囲んでいた数百もの幽霊たちも、それぞれがぼやけ、海水に溶け込むように消えていく。
『礼を言う、お嬢さん、引き留めてすまなかった』
幽霊紳士の、全てを悟って解脱した様子に、アマミはほっとした、少し涙ぐんでいる自分を感じる。
『みなさん、どうかお元気で……』
相手が幽霊でも、さすがに“ご愁傷様です”という別離の言葉は出せなかった。
『ありがとう、お嬢さんもな』と幽霊紳士は右の掌を垂直に立てて海軍式の敬礼をする寸前で、アマミが戦争とは縁のない民間人であることを察してか、その所作を途中でやめて軽く手を振ると、何か思いついて、やや慌てて付け加えた。
『隣の空母のあの怪物だが、当分はおとなしくしているよう、言い聞かせておくよ……』
言い終えるとともに、幽霊紳士はうっすらと深海の闇に溶暗していった。
『ありがとうございます!』と大声でお辞儀したアマミだったが、消えてしまった幽霊紳士に聞こえたかどうかはわからない。
ともあれ、深海の幽霊たちは全員、呪縛から解き放たれて、それぞれの行くべきところへと旅立ったわけだ。
気持ちとしては、哀しい。けれど、してあげなくてはいけないことをやり終えた。
それに原子怪獣ゴランジも、これから何年かは知らないけれど、夫婦で静かに暮らしてくれるといいな……と、しめやかな気分で思いながら、アマミは浮上を始めた。
といっても、泡繭の空気の浮力で浮かんでいくのではない。
これは根本的に気球のようなものではなく、魔法の結界だからだ。
魔法力で、上方の海水から窒素や酸素、二酸化炭素などの気体を漉し取って泡繭の中に入れる。同時に下方の海水へ、それらの気体を溶け込ませる。
つまり上下の物体を入れ替えることで昇っていくわけだ。
泡繭の中では上から下へ風の流れができる。
エレベータのような上昇。
ただでさえ寒い深海。
飛行箒に腰かけて浮かぶ泡繭の内部は、このままクリスマス土産のスノードームになりそうなほど冷えていた。
「……♪ふりゃーみ・とう・ざ……」
ごく自然に好きな歌を口ずさむ。ドリス・デイの歌唱で知られる名曲だが、それを勝手にアップテンポに編曲すると、アマミは箒と一緒に踊り出した。
両手を振り、足をタップし、腰をひねって空中で飛び跳ねる。はたしてこれはツイストかゴーゴーか、それともモンキーダンスか。……自分でもわかンないけど、たぶんモンキー!
「♪ふりゃーみとーざむーん あれみーぷれーあんまんぐすたー れみしーわすぷりんぐすらいおん じゅぷたんまわす……」
言語的整合性は完全無視して自分用の適当な聞き書きの和風歌詞、だれも見ていないので声を張り上げ、すっかり気を良くして、踊るというより暴れまくる。
どうしても歌い出しが「ふりゃー」になるのは、身に着いた性というか、朝食も昼食も抜いたまま水面へ帰りゆく今はとにかく腹ペコで、脳裏に浮かぶのは輝くばかりの黄色い衣に朱色の尻尾を目出度く生やした大好物だからである。
腹減った腹減ったぁぁぁぁ……とばかりに踊っていると、身体も温まってきた。よしよしと思ったところで、空腹があらゆる欲望に優先する。
「♪エビフリャー、あソレ、エビフリャー、エビフリャーエビフリャー、エビフリャー……」
歌詞はいつのまにか海老フライの連呼になっていた。学校帰りに買い食いできるのはお財布的にコロッケ一個どまりだが、イメージだけは大好きな海老フライに置換している。
念のため付言すると、アマミの脳内に、いの一番に出てくるエビフリャーは、伊勢海老の特大サイズをおいて他にない。三重県人なればこそ、エビは伊勢海老に限るのだ。未来のスーパーで定番化するブラックタイガーやバナメイエビなど店頭に存在しない時代である。
三万円のバイト代の一部で、ふくよかに太った一本のエビフリャーにありつけることを期待して、歌もすっかり上機嫌のところで……
キコン!!
耳をぶん殴るほど強烈な鐘一つで、アマミの“一人のど自慢”はあえなくジ・エンドとなった。
「え、何!? 何、なにそれ?」
両耳を両手で抑えて、とんでもない大音量の超音波ハンマーの一撃に耐える。
仰天するアマミ。
ここは水深二百メートルあたり、水温はやや暖かくなって摂氏10度前後。水面は晴れているようだが、太陽光はほとんど届かず真っ暗だ。
しかし30ノット近くの高速で水中を突進してくる巨大な鉄のクジラが眼前に迫ってきたことが、アマミの音響探信で感知できた。
全長130メートルを超える大型潜水艦。
今しがたのキコン! は、こいつのソナーが発振した探信音だったのだ。そして……
突如、海中が大音量の妖精語で満たされた。水中拡声器だ。
これも超音波でアマミの頭蓋骨にわんわんと、少女っぽい女性の声が響く、というより轟きわたる。
『こちら原潜トライトン号! 米国セイレム魔女団の専属潜水艦として行動中である。ニッポンの魔法少女ミス・アマミ・イソガイ、妖精語で応答されたし! 急ぎ応答されたし!』
そして明らかな蛇足が肉声で続いた。
英語音痴な日本人にも聴きとれるよう、わざと、たどたどしく。
「ホワット・イズ・エビフリャー?」
……聴いてたんかい!