故郷
クリーグとザーヴェルが交戦を開始する数日前、ヴィーネウスは、覇王の深淵を訪れていた。
この場所はかつて覇王が大陸を四つに分断した際に中央に穿たれた溝である。
大陸が分断された当時は、大地のひずみがこの位置に集中してしまったため、かつて森林だった大地は隆起と陥没を繰り返した。
地下水路は分断され、あちこちからマグマが噴き出して地表を荒らしてしまった結果、深淵周辺の土地は不毛の荒野と化してしまっている。
ところが、先日発生した大地の鳴動により、覇王によって十字に穿たれた大地は再び隆起し、物理的な国境を開放してしまった。
覇王の深淵においても同様の隆起が発生し、深淵は周辺の土地が山のように盛り上がり、あたかも火山のような様相を呈している。
ヴィーネウスは隆起した大地を淡々と登り、山頂らしき位置に到着すると、そこから火口の位置に当たる大孔を覗き込んだ。
「やはり姿を現しているか」
ヴィーネウスはそう呟くと、ゆっくりと火口を降りていった。
孔は降りていくに伴い徐々に狭まっていき、最後は人一人がやっと通れる程度の竪穴となった。
ヴィーネウスは、徐々に狭くなっていく穴に慣れた仕草で潜り込むと、ゆっくりと浮遊の魔法を唱えた。
その後、狭い竪穴は唐突に終わり、ヴィーネウスの身体は自由落下を始める。
しかし彼は落ち着いてレビテートを操作すると、ゆっくりと地面に足をつけた。
そこは広間のような空洞となっていた。
天井の細い穴から一筋の陽光が差し込み、それが鏡のように磨かれた岩盤に反射して、うすぼんやりと空洞の中を照らしている。
ヴィーネウスは勝手知ったる様子で空洞を奥に進んでいった。
空洞の最奥。
そこには、二体の彫像が壁面にもたれかかるように重なり合っていた。
壁を背にしているのは美しい女性の彫像。
女性に向かい合っているのは精悍な男性の彫像。
女性は男性の首に両腕を回し、彼の唇を彼女の口元に引き寄せているかのような状態で制止している。
一方の男性は、両腕で掴んだ剣を腰の位置に構え、女性の下腹を剣で貫き、彼女を壁に縫い付けていた。
それだけではなく、男性の背には大剣、四肢にはそれぞれに矢が突き刺さっており、その切っ先は女性をも貫き壁に到達している。
さらに像は二種類の強力な魔力で覆われている。
それは一見すると凄惨な光景。
しかし、なぜか女性像も男性像も、あり得ないほどの穏やかな表情を浮かべている。
ヴィーネウスは二体の像に近づくと、無機質な表情で男性像に語りかけた。
「覇王よ、お前の呪いが発動したぞ」
すると男性像は、動かぬままに笑い声を洩らし始めた。
◇
かつてシュタルツヴァルト大陸では様々な種族、様々な生物、様々な魔族が入り乱れ、互いに奪いあい、互いに殺戮しあう歴史を繰り返していた。
歴史は各種族の寿命以上に積み重なることはなく、異界から召喚された魔族にはそもそも歴史の概念がなく、ただただ生命が産まれ、活動し、滅んでいくというサイクルを繰り返していった。
そうした中、ある魔族に偶然「意思」が生まれた。
それは戯れに殺戮を繰り返していた魔族に摺りこまれた、犠牲者の「生きたい」という意思。
魔族はこの意思が気にいった。
その後、この魔族は大陸に生きる者たちの「生への欲求」を糧とし、彼の精神に累積させていった。
そうした中、ある日彼は一つの想いに目覚めることになる。
「生きたいとあがく者を生かそう」
彼は自らに生まれた想いを成就させるために、自らを王と名乗り大陸の覇権を目指すことにした。
間もなく彼の元には彼に心酔した者たちが集まってくるようになる。
彼はその中で特に優れた「戦士」「弓士」「魔術師」「祈祷師」を引き連れ、シュタルツヴァルト大陸の平定に乗り出したのだ。
彼は「恐怖」で民を統治した。
彼に刃を向ける者は、その関係者とともに、ことごとく惨殺した。
まさしく一族断絶となるまで。
争いは常に問答無用で両者を罰した。
彼を恐れる民は彼の命に盲従し、無駄な争いを起こすことはなくなった。
人々は彼の命令に従うままに、生活様式を「掠奪」から「生産」へと変化させていった。
彼の想いは間もなく成就されるはずであった。
ところが、彼に抵抗する者が現われた。
それは彼と生まれを同じとする魔族の女性。
彼女は彼と同様に、ある意思を刷り込まれていた。
それは「無償の愛」
戯れに殺そうとした子供の前に飛びだし、自らの胸を彼女の爪に貫かれた母親の想い。
そのときから、彼女は殺すことをやめた。
覇王の恐怖の元、搾取されるしか生きる術のなくなった弱者たちは、自然と彼女が守る土地に徐々に集まっていった。
彼女を「聖母」と慕い、信仰することにより、彼らは心の安寧を享受したのである。
覇王は己の想いを盲信していた。
だから彼女の討伐に向かったのは当然のこと。
何故なら彼には「生への欲求」しかなかったから。
人は競う事により生を成就するのだとの想いしかなかったから。
覇王は彼女の土地に侵攻すると、部下の四名に命じて、彼女を慕って集まった者たちを、この大陸には無用とばかりに殺戮していった。
人々はその身を犠牲にしながら彼女を逃がし、大地に掘られた祠に彼女を匿った。
しかしそれも覇王の前では無駄な抵抗に終わる。
祠の奥では、女性がそのときを待っていた。
前に立つ覇王に、彼女は寂しそうな表情で語りかけた。
「欲求に捕われた魔族マルスよ、あなたはいつまで殺戮を続けるのですか?」
「欲求を認めぬ魔族ヴィーナスよ、全世界が俺の元にひれ伏し、等しく生を享受するまでだ」
そう、二人は同族だったのである。
「ヴィーナスよ、貴様にも消えてもらう」
「マルスよ、貴方にも慈悲を与えましょう」
「笑止」
壁際で両手を広げ、彼を待つ彼女に、彼は両手で刃を突きたてた、
同時に彼女は彼を両の手で包み、彼にぬくもりを伝えていく。
しかし二人の想いはここで遮られる。
「覇王よ覚悟!」
戦士の言葉を合図に、覇王は弓士が放った四本の弓で四肢を壁に縫いつけられ、背には戦士が渾身の力で大剣を貫き通す。
同時に魔術師が魔道結界を張り巡らせて二人の自由を奪い、祈祷師は石化の呪いを二人に投げかけた。
四人は恐れていたのだ、目の前の覇王を。
四人は求めていたのだ、目の前の覇権を。
だから四人は結託して覇王を滅することにした。
ひたすら機会を伺いながら。
「これが貴方の求めたものかしら……」
ヴィーナスのため息にマルスはおかしそうに笑いだす。
「ならば貴様らのお手並みを拝見するとしよう」
覇王は最後の力を振り絞って大陸を四つに割るとともに、四人に授けていた神器に彼の想いを植え付けた。
身につけた神器の輝きとともに、四人の結束は脆くも崩れ去っていく。
「貴様らの誰が覇王にふさわしいのか見せてみよ!」
最後に覇王は彼ら四人を四分割した大陸それぞれに跳躍させた。
四人で争い合うようにと。
石化していく覇王の目の前で、聖母は最後に微笑みを浮かべた。
「ならば私も行く末を見守りましょう」
「我の邪魔はするなよ」
「ええ、約束するわ。その代わり……」
聖母は覇王の魂から一部を譲り受け、己の魂からの一部をそこに重ねた。
重ねられた魂は徐々に人型をとっていく。
「行きなさい、そして見守りなさい。この世界の行く末を。私たちの息子、魔族ヴィーネウスよ」
◇
続けてヴィーネウスは女性像にも語りかけた。
「聖母よ、約束通り俺はこの大陸での覇権争いには名乗り出てはいないぞ」
すると聖母もおかしそうに笑いを漏らす。
「そうよねヴィーネウス、貴方は私たちの約束通りにしていてくれているわ」
聖母の言葉に覇王も笑いを重ねてくる。
「で、誰が勝ちそうだ? ヴィーネウスよ」
「知らん」
つまらなそうにヴィーネウスは返事をすると、彼は呪文を練り始めた。
「誰が勝つのかは知らんが、何らかの決着はつくだろうよ」
ヴィーネウスは魔術師の結界を解除していく。
「父よ、母よ、あんたらを縛ってきた『生命の欲求』も『無償の愛』も、大陸には満たされた。そろそろいいだろう」
ヴィーネウスは二人に施された石化の呪いを解いていく。
「それじゃあな、元気で暮らせよ」
最後にヴィーネウスは彼らを貫く大剣と弓を引き抜き、聖母の腹を貫く覇王の剣も続けて引き抜いた。
「お前はどうするのだ?」
「あなたはどうするの?」
マルスとヴィーナスの問いにヴィーネウスはにやりと笑う。
「俺はこの世界で生まれたからな。ここが俺の故郷だ」
そううそぶく彼の前から、マルスとヴィーナスはゆっくりと消えていく。
最後に一言を残して。
「達者でな、我らが息子よ」




