母娘の招聘
ヴィーネウスは馬車で一人南西に向かっている。
ん?
突然、彼のうなじがピリピリと逆立つ。
続けて目的地の方角から強烈な鉄錆の臭いが彼の鼻腔を刺激する。
馬車を進めた彼がしばらくの後に目にしたのは、草原を真っ赤に染めた血の海であった。
「おや、久しいのヴィーネウス。これはまたどうした?」
「それはこちらの台詞だ。マンティス」
血の海の中心には、蟷螂婦人の二つ名を持つ女性が、両腕を真っ赤に染めながら立っていたのだ。
ところが彼女は一人ではなかった。
マンティスの隣には、彼女の腰丈くらいであろう童女が立っている。
マンティスと同様に両腕を赤く染め、母が浮かべる妖艶な微笑みとは対照的な、無垢な笑顔を浮かべながら。
「で、何があった?」
「こやつらがわらべを襲おうとしたのでの、返り討ちにしてやっただけじゃ」
「ははさま、こやつらの肉よりも、酪の方がおいしゅうございます」
ヴィーネウスはやれやれと頭を掻きながら、馬車の荷台から荷物の一部を降ろし、彼女たちに手渡した。
それはマンティスがとある貴族に(本人の意思で)売られた際に、マンティスの好物となった干肉と、以前ややこ用にと指定されていた酪。
「それではヴィーネウスよ。わらわたちは屋敷に戻っておるからの。お主はせいぜい略奪に励めよ」
真っ赤に染まった母子がヴィーネウスの土産を抱えながら和気あいあいと帰路につくのを見送った後、彼は惨殺死体たちから、彼らの身分を証明するようなものをあさっていった。
「なんだと」
死体の懐から出てきた特殊な経典から彼は確信した。
こいつらはヒュファルの神兵どもだ。
ということは。
ヴィーネウスはそこらじゅうに無造作に転がっている死体の検分と金品の剥ぎ取りを一通り行った後、大地が鮮やかな赤からどす赤く変色していくのをそのまま放置し、蟷螂婦人の屋敷に出向いた。
「で、何用じゃ?」
いつの間に身を清めたのか、薄緑の衣を纏ったマンティスが、肘掛にもたれながら、興味深そうにヴィーネウスに尋ねた。
「実は少し留守番をお願いしたいと思ってな」
「相変わらずまどろっこしい言い回しをするよの。貴様は」
ヴィーネウスの返事を鼻で笑いながら、マンティスは彼女の膝を枕に眠る娘の頭をひとなでした。
ヴィーネウスがビーネから依頼されたのは、蟲獣族最強の個体である蟷螂族マンティスの招聘。
実はザーヴェルとの国境防衛には、既に介護院のサキュビー達から協力を得られることが約束されている。
魔族である夢魔サキュビーと、水の精霊である歌姫セイラは強力な魔術師でもあり、彼女たちならば十分にザーヴェルの魔術師にも対抗できるであろう。
しかし魔術には「創生魔法」の系統もある。
これは傀儡などを操り、直接攻撃力でごり押しする魔法。
こうした人外からの物理攻撃に対抗できうる者は、介護院には現在のところ哭鬼族のクレムしかいない。
ちなみに月兎の少女ルビィは、あらゆる意味で危なっかしくて戦力には加えられない。
なのでビーネは直接戦力増強のために、マンティスの招聘をヴィーネウスに依頼したのだ。
「報酬は十分な干肉と酪だ。敵兵ならばいくらでも食っていいというのも条件だったが、先程の様子を見ると人肉には飽きたようだしな」
などと言い放ったヴィーネウスに、マンティスはおかしそうに笑いかける。
「人肉にも色々あるからの」
すると、いつの間に目を覚ましたのか、マンティスの膝に頭を預けたままの幼子がヴィーネウスを指さすと、母へと無邪気に語りかけた。
「ははさま、この方のお肉はおいしそうです」
「な、わらべもこう申しておる」
勘弁してくれ。
「で、どうするんだ? 招聘に応じてもらえれば、その子の遊び相手くらいならば、いくらでもなんとでもなるが」
ヴィーネウスからの意外な提案に、ほう、とマンティスは感心したように息を漏らした。
「それはわらべにとって成長の糧となりそうじゃの。ならばお誘いに乗せていただくとしよう」
こうしてヴィーネウスは無事蟷螂族の親子とともにミリタントへと帰還した。
その後ヴィーネウスは再び集まった女たちに、ヒュファルの神兵が中央を抜けてクリーグにも侵入してきた事実を教えてやる。
彼の報告に彼女たちは一様に顔をしかめた。
「ヒュファルはそこまで狂っていたのね」
彼女たちはサラがイエーグから戻るのを待ってから、作戦を立て直すことにした。
当然、ウルフェを通じてログウェル卿に、ヒュファルから最短の位置となる南西の守りも固めるように伝えることも怠らない。
侵入してくるヒュファル兵の殲滅だけならば、マンティス達が元の住処に戻るだけで済むのかもしれないが、それでは皆殺しになってしまうので、捕虜を取ってヒュファルの情報を得ることができない。
それに蟲獣族の攻撃は出会いがしらだからこそ脅威なのであり、二度目以降は対策されてしまう恐れもある。
なればこそ、ここは軍で守りを固めるべきなのだ。
一方、こちらは介護院。
「なんじゃ、辛気臭いのう」
介護院の玄関に立ったマンティスは、爺さんばかりが徘徊している庭を見て、呆れたようなため息をついている。
するとそこに四人の女性がマンティスたちを出迎えた。
「貴女がマンティスね。よろしく」
ほう。
今度は一転してマンティスは楽しそうな表情となる。
「魔族が三人に紅髪鬼とな。これは平時も退屈しないで済みそうじゃのう」
そんな反応を見せるマンティスをサキュビーは、舌舐めずりをしながら改めて院内に迎え入れた。
「こちらも退屈しないで済みそうよ」
などと大人が互いを微笑で威嚇しあっている間に、月兎の少女は童子の手を引っ張りながら、楽しそうな様子でどこかに消えていってしまった。
さて、これからどうなることやら。




