月のうさぎ
ヴィーネウスとサキュビーは、半開きの扉から、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
床には女性たちが全裸のまま倒れこんでいる。
多分この館の住人やら、メイドやらであろう。
さらにその奥からも気配が感じられる。
「いたわ」
「ああ」
部屋の奥には魔法陣が描かれ、その脇では、やはり全裸の老人が夢遊病者のように立っている。
「次じゃ、次じゃ……」
老人はそう呟きながら、サキュビーの元にゆっくりと歩み寄ろうとしてくる。
さらに魔法陣の中央にも何かの気配が伝わってくる。
魔法陣の中には、全裸の男どもが積み上げられており、その上にさらに人影のようなものが見えた。
「あなたはこちらよ」
その人影は、ヴィーネウスに向けて呪文を投げかけるように囁いた。
サキュビーはゆっくりと老人に捕らえられると、抵抗できぬままに衣類を脱がされていく。
一方のヴィーネウスも、魔法陣からの甘い声に誘われるようにゆっくりと歩みだした。
一歩一歩、ゆっくりと。
ゆっくりと。
サキュビーが全裸になるころ、ヴィーネウスは夢遊病者のように魔法陣へ足を踏み入れた。
結界が張られていたのであろうか、一瞬ヴィーネウスの全身が震えるも、彼は気にしないかのように、誘われるがままにゆっくりと魔法陣の中に入っていく。
そして彼が完全に魔法陣の中に踏み込んだ瞬間に、それまでは老人に身を任せていたサキュビーが唐突に叫んだ。
「セイラ、今よ!」
サキュビーの叫びと同時に、ヴィーネウスが首からかけていた瑠璃色のペンダントが輝き、そこからセイラが溶け出すように姿を現した。
「いたずらっ子ちゃん、これで終わりよ」
◇
月の夜は、一人の貴族魔術師による戯れが原因だった。
若いころは貴族としての執政と、魔術師としての研究に励み、それなりの成果をあげてきた彼であったが、次第に体の衰えを感じるようになり、自らの終末をも予感するようになってきた。
彼が若いころに懇意にしていた同門の魔術師たちは、あるいは不老不死に取りつかれて自らその身を滅ぼし、あるいは死を正面から見据え、己に恥じない最期を成そうとしていた。
そんな中、一人の魔術師が夢魔召喚を成功させ、彼女を従えさせた上で、己の理想を現実とした。
それはサキュビーの夫である老魔術師。
現実には老魔術師から依頼でヴィーネウスが太古の神殿からサキュビーを引っかけてきたのだが、事情を知らない他者の目には、老魔術師が夢魔を召喚したと映ったのだ。
彼は焦った。
そして嫉妬した。
魔物を従えた同門に、理想を成し遂げた同門に。
だから彼も魔物を召喚しようとした。
若いころの自分自身を一時でも取り戻し、悔いを残した行為に溺れるために「月兎」を。
魂を代償に、命の炎を燃やしてくれるとされた魔物を。
しかし彼は失敗した。
月兎は彼に召喚されたが、彼の意志を酌むことはできなかったのだ。
用意された魔法陣が不完全であったために。
不完全な魔法陣に呼び出された月兎は、魔法陣の中央で狂ってしまう。
狂った兎は月の魔力を歪めてしまった。
こうして兎は「月の夜」を引き起こすことになる。
館の住人は全員が「月の夜」に侵された。
召喚主である老人は館の女性住人たちを自身の妻から娘、メイドに至るまで片っ端から犯し、老魔術師以外の男どもは魔法陣の中央に現れた兎耳の少女に殺到した。
「月の夜」は、実は女性たちにも影響を及ぼしていたのだ。
「メスはオスを際限なく受け入れてしまう」という影響を。
こうしてこの館を中心に、王都ミリタントは乱交の夜を迎えてしまったのである。
◇
「今回はセイラのお手柄ね」
ここはヴィーネウスの隠れ家。
椅子はもちろんベッドや床までもが、女性陣たちによって占拠されている。
「理由はわかったけれど、どうやって解決したの?」
アリアが投じた疑問の声に同調する女性陣たちの目線に答えるかのように、サキュビーが解説していく。
「狂気の月」の影響は女性陣も受けてしまう。
なので、あの場に女性が同行しても、色欲の権化と化した老魔術師の餌食となってしまうだけ。
男性陣もそう。
同じように月兎の餌食になってしまうだけ。
しかし、月兎の魔力は同族である魔物には無効。
つまり、夢魔であるサキュビーと、歌姫であるセイラは彼女の支配下に囚われることはない。
しかし一つ問題があった。
それは多分施されているであろう「魔法陣の結界」への対処。
恐らくルナルラビットの魔法陣には、女性は結界に阻まれ、立ち入ることができないであろう。
だからヴィーネウスが魔法陣の結界を超えた後に、セイラが彼の持つ瑠璃石を通じて召喚されたのだ。
こうして魔法陣内の狂った月兎はセイラに制圧され、その後、正気に戻ったヴィーネウスが内部から魔法陣を破壊したというわけである。
「で、館の老魔術師とかはどうなったの?」
「全員意識不明のまま置いてきたわ。こちらの姿を見られるわけにもいかないしね」
老魔術師暴走のきっかけが自身の夫にあるとうすうす気づいていたサキュビーは、これ以上老魔術師を刺激しないように、そのままにしてきたのだ。
どのみち体力を消耗した彼の生い先は、ほとんど残されてないであろう。
彼が介護院を訪ねて来たら、そ知らぬふりで迎え入れてやればいいだけのこと。
「というわけよ。それじゃ解散」
サキュビーの号令とともに、王都ミリタントは平常に戻った。
「ところでそいつはどうするんだ?」
「私が責任をもって引き取るわよ」
サキュビーの横では、セイラにやさしく抱かれた小さな兎耳の少女が、すやすやと眠っていた。
◇
やれやれ、今回はただ働きか。
ベッドに横たわり、つい愚痴をこぼしてしまったヴィーネウスをからかうように、小さな蜘蛛が天井からするすると降りてきた。
ぱふん。
「へへ、私が慰めてあげようか?」
「いらん」
アリアのちょっかいにそっぽを向くヴィーネウス。
今日は平常運転である。
「でも、月の夜のやばさって、そんなに街には影響はなかったよね。もっと混乱するかもしれないと思ったけれどさ」
アリアの疑問にヴィーネウスは、ある文献の記載を思い出し、一人噴き出した。
どこぞの異世界には、神の誕生日前日を口実に、一晩だけ国民が一斉に交尾を始める国があるということを。




