いってらっしゃい
「侵入者は死んでね。あら?」
「いきなりひどいな。まあ話を聞け」
紅蓮の炎が消え去った後、そこには何事もなかったかのように一人の男が立っていた。
「驚いたわ、爆炎にも平気な顔をしているだなんて。一体あなたは何者なの?」
「だからさっきも言っただろう、お前を買いに来たって」
漆黒の闇からの問いかけは続く。
「大司教さまはどうしたの?」
「神殿ごと滅んだらしい。かなり昔にな」
「そう……」
再び魔法が飛んでくるのではないかと結界の中で身構えたヴィーネウスだったが、相手の反応はおとなしいものだった。
「そう、それなら私を縛る者はいないのね、縛ってくれる者はいないのね」
呟きとともに、声の主はヴィーネウスの前に姿を現した。
薄闇の中に赤髪が流れ、深紅の瞳は闇に輝き、瑠璃色の唇は深淵に濡れている。
「ならばどうする?」
「私本来の目的を繰り返すだけ。人を夢に誘い、魂を削るだけ。まずはあなたからね」
「やってみな」
「ふふ」
ヴィーネウスの前に立つ女は笑みを漏らした。
「夢魔」が、深紅の瞳を一層輝かせ、ヴィーネウスの元へと歩み寄っていく。
ヴィーネウスは夢心地に晒されている。
溶けるような甘い心地に彼の意志は霧散してしまう。
彼の隣では美しい女性が耳元で彼に囁く。
「さあ、天国に誘ってあげるわ」
え?
いつの間にか彼女の耳を甘い声がくすぐっている。
夢魔の全身を甘い心地が包んでいく。
それはただ甘いだけではなく、ところどころに甘美な電撃を伴った夢心地。
ありえないことにサキュバスは混乱してしまう。
しかし混乱も、その後にもたらされる快感の中に霧散していく。
そのとき、ちくりと彼女の耳を痛みが襲った。
夢心地を一層高める香辛料のように。
「さあ、天国を見せてやる。小悪魔ちゃん」
◇
ヴィーネウスは肩で息をしていた。
「ちっ、この底なし小悪魔め」
胡坐をかいた彼の膝を枕に、サキュバスは脱力したかのように横たわっていた。
しばらくすると、彼女は目線だけを彼に向けた。
そして微笑む。
「夢魔を夢に誘うなんて反則よ。でも素敵だったわ。大司教さまが供えてくれた、供物のオスどもなんて、もういらない」
「なんだ、大司教とやらは、腹いっぱいになったお前をもて遊んでいただけなのか」
「違うわ、もて遊ばれてあげていたの。今考えるとね」
「なんだそりゃ」
「もて遊ばれるという本当の意味を今知ったわ。あなたによってね」
「そりゃどうも」
会話を続けながらサキュバスはヴィーネウスの膝の上であおむけになった。
続けて気だるそうに両の腕を伸ばし、ヴィーネウスの首に回していく。
「いいわ、あなたに買われてあげる。代金はあなたが死ぬまで私をもて遊び続けてくれるということでいかが?」
「ふん、そんなもんでいいのか?」
「そんなもんって、もっと何か素晴らしいことがあるの?」
「実はな」
数刻後、ヴィーネウスとサキュバスは神殿跡の地下室を離れ、その足で発注者の元に向かっていった。
◇
「サキュビー、わしもそろそろのようじゃ」
生を全うし、魂をすっかり消耗させてしまった老魔術師が、彼が横たわる病床の横に腰掛けている女性に、おどけながら笑いかけた。
「そう、寂しいけれど引き止めはしないわ。あなたもそんなことを望んでいないでしょうから」
「そうじゃ、一人残してすまんが、わしの遺志を継いでくれるか?」
「ええ、あなた。あなたの魂が私の中で溶けてなくなるまで、私はあなたのものだから」
「では、頼む」
「それだけ?」
老魔術師は最後に照れたような表情を浮かべ、彼の理想を実現してくれた夢魔を見つめなおした。
「わしの最後の夢を実現させてくれてありがとう」
「他には?」
……。
「愛しているぞ、サキュビー」
「私もよ、あなた。さよならは言わない。行ってらっしゃい」
サキュビーと呼ばれた女性は、老魔術師の枯れた唇に、瑠璃色の唇をゆっくりと重ね、彼の意識をほどいていく。
老魔術師は夢心地。
幼い時代、青年の時代、戦いの時代、研究の時代と、彼の記憶が鮮やかに蘇る。
つらい記憶も楽しい記憶も等しく振り返り、彼は自身の人生を誇るかのように胸を張る。
悔いはないと。
最後に彼は彼だけになる。
富も名声も責任も権限もすべて消え、裸の彼がそこに残る。
そこで彼は柔らかな感触に全身を包まれていく。
残された魂を己のためだけに灯し、彼は最後の快楽に身をゆだねていく。
いい人生だった。
老魔術師はそのまま安らかに息を引き取った。
老魔術師が最後に残した仕事。
それは魂を消耗しつくした者たちや、破滅の暴走により死が現実となった者たちが、悔いなくその生を全うし、自らの意志で安らかに死を迎え入れる施設の建設と運営であった。
数多の愚かな魔術師どもが、生に執着し、死霊魔術などの邪心にとらわれる中、この賢なる老魔術師は「いかに死ぬか」を最後に求めたのだ。
その後、王族による計らいで、この施設では、入居者はここに足を踏み入れた時点で「死亡」とされ、子に後を継がせ、財産を整理することができるようになった。
この施設で己の余生を満喫し、最期に自ら決断した日に、夢魔は入居者の部屋を訪れる。
サキュビーは求められるがまま、彼らの記憶をほどいてあげる。
残された魂を灯してあげる。
美しく燃え尽きていく魂。
それは彼女にとっても、最高の御馳走だったのである。
◇
「なあヴィーネウス、サキュビーのやつ、よくあんなおいぼれ爺さんのところに嫁いだな」
「女心はわからんよ、ダンカン」
「お前がその口でいうか」
「黙れエルフたらし」
相変わらずおっさんどもは酒を飲み、どうでもいいことにくだを巻いている。
「終末の楽園」の運営を亡き夫に任されたサキュビーが、レイネ川での哀しい眷属の噂を耳にし、その歌声で入居者に安らぎを与えようとヴィーネウスに注文を出すのは、もうしばらく後のことになる。