老魔術師の結論
老魔術師は研究日誌の束を机上に放り出すと、ため息をついた。
「やはりな」
この世界には数々の魔法が存在している。
中でも人々にとって最もありがたさを実感できる魔法が「治癒魔法」の系統である。
傷や痛みを一瞬で取り除き、高位の術者が唱えれば、四肢すら再生させてみせる。
そんな治癒魔法だが、それは決して万能ではない。
まず、治癒魔法は、対象者の年齢が高齢であればある程、効果が落ちてくる。
例えば平原族においては、対象者が赤子であれば、肉体欠損も十分治癒可能となっている。
しかしこれが五十歳を過ぎてくると、ちょっとした傷ですら、修復に魔力と時間がかかってしまうことが経験上知られている。
次は病に対して。
怪我とは異なり、病には治癒が効果を示す症状と示さない症状がある。
例えば同じ咳でも、治癒で治まる場合もあれば治まらない場合もある。
老魔術師は、こうした「治癒が効果を示さない場合」について、長らく研究を続けていた。
そして彼は今、彼が立てた仮説が、数多の実験結果により正しいと確信した。
それはすなわち「魂の消耗」と「破滅の暴走」である。
生を営む糧である魂は、年を重ねるごとに、すり減るかのように減少していく。
これを老魔術師は「魂の消耗」と名付けた。
老魔術師の研究によれば、治癒魔法は、術者が対象者の魂を糧に、肉体の修復を瞬時に行っている。
ところが「魂の消耗」が進むと、対象者の防衛本能が働いてしまうかのように、魂は必要以上の消耗に抵抗するようになる。
その結果、治癒魔法はその効果を十分発揮することが叶わなくなってしまう。
治癒魔法が効かない症状や状態も同様である。
病が外的要因によるものであれば、治癒によりそれを浄化してしまえばいい。
しかし肉腫と名づけられた症状のように、肉体自身が己の意志を持つかのように変化してしまうのは、治癒魔法では元には戻らない。
老魔術師はこれを「破滅の暴走」と名付けた。
老魔術師はそもそもこれらの症状は、「病」ではなく、己の肉体寿命を終息させるべく、生命活動終了の秒読みに入った状態であるのではないかと推測した。
つまり、魂が消耗した者や、破滅の暴走が肉体に現われた者には、確実な「死」が待つということ。
ここで老魔術師は、己のこれまでの人生を鑑み、一つの理想を実現しようと動きだしたのである。
◇
「じいさん、正気か?」
「正気じゃよヴィーネウス」
連射花火亭の個室で、ヴィーネウスは目の前の老人が語った突拍子もない計画に唖然としている。
彼の目の前に座る老人は、二つ名に「病を克服する者」を持つ高名な老魔術師であり、クリーグ王家に連なる者でもある。
「じいさんの魔力ならどうにでもなるだろうに」
「無茶を申すな。魔物退治だけならともかく、それまでの旅程に、この身体が耐えられん。それにな、この計画は説得が大事なのじゃ、説得がな。なあ、女衒よ」
と、老魔術師は年季の入った嫌らしい笑みを見せつける。
これだから頭の回るクソジジイは苦手だと、小声で文句を言いながらも、ヴィーネウスは計画の詳細について耳を傾けた。
◇
ここは王都の北東に位置する、刻印の日以前に建立された、今はもう失われた、とある神の神殿だった場所。
建物のほとんどはすでに風化し失われ、いくつかの柱が風雨に浸食されながらも、その姿を影に映している。
ヴィーネウスは神殿跡を慎重に調べて行く。
「ここだな」
そこには老魔術師からもたらされた情報通り、地下への扉が巧妙に隠されていた。
神殿の地下は、いつの時代も信者に対し見せてはならないものが隠されているという。
ヴィーネウスは隠し扉をゆっくりと開けると、闇に塗りつぶされた通路に足を踏み入れた。
まず漂うのは枯れた腐臭。
次にそれを覆い隠そうとするも、長い年月の中で劣化し消耗してしまった香油のなれの果てが、悪臭に拍車をかける。
壁には光彩魔法がかろうじて残され、ところどころで燐のように淡い光を放っている。
薄闇に慣れてきたヴィーネウスの目に映るのは、通路の左右に穿たれ、格子でふさがれた穴の数々。
それぞれの穴には、腐臭の元であろう、何かの死体だったものが放置されたままになっている。
多分ここは地下牢獄だったのだろう。
恐らくは一度入れられてしまえば、二度と出ることが叶わない場所。
「ふん。殺すべからずか、馬鹿馬鹿しい」
宗教者どもは経典に従う。
だから殺さずに閉じ込める。
閉じ込めた者どもが死ぬのは神の意志という理屈なのだ。
さらに奥へと進むヴィーネウスの前に、宗教画が描かれた扉が姿を現した。
「今度は、姦淫すべからずか。どれだけだよ」
眉をひそめながら、ヴィーネウスはゆっくりと扉を押し開く。
するとヴィーネウスの耳に哀しげな旋律が、はかなげに響いてきた。
ら らら らら……
ちりちりとうなじを焼く感覚。
こいつは上玉だな。
ヴィーネウスはそう独り言をつぶやきながら、広間の奥にゆっくりと進んでいく。
すると彼の気配に気づいたのか、旋律が止まる。
「大司教さま?」
声の主にヴィーネウスは答えない。
「大司教さまじゃないの? それならあなたは誰?」
「お前を買いに来た」
「大司教さまは? 大司教さまは?」
「知らん」
ヴィーネウスが否定の言葉を紡いだ途端に、彼は足元から吹き上がる紅蓮の業火に全身を包まれた。