レディ・マンティス
「他人の屋敷に無断で上がり込むとは、無礼なことであるな」
責めるような言葉とは裏腹に、屋敷の奥で幾重もの薄絹を纏った女性が、肘掛に持たれながら妖艶な微笑みを浮かべている。
腰までの真っ直ぐな黒髪に大きな両の瞳。
紅を引かれた薄い口元にほっそりした顎が、女性に魔性を感じさせる。
「門番が留守だったのでな。失礼した」
ヴィーネウスは何事もなかったような表情で女性に近づくと、その前で不作法に胡坐をかいた。
「無礼にもほどがあるの」
女性は扇子のようなもので口元を隠しながら、コロコロと笑っている。
「で、何の用じゃ?」
「お前を買いに来た」
「わらわをか?」
女性の表情から笑顔が消え、両の大きな瞳がヴィーネウスを睨みつける。
「お主、自身が何を申しておるのかわかっておるのか?」
薄い唇からきらりと何かが光る。
しかしヴィーネウスは動じない。
「今は草木が萌える時期だが、いつまでもこの季節が続くわけではないだろう? なあ、螳螂婦人」
「なんじゃ、わらわのことは調査済みか」
続くヴィーネウスからの説明に、女性は再びコロコロと楽しそうに笑っている。
「面白い、お主に買われてやろう。じゃが、売られた後のことまでは保証せぬぞ」
「わかっている。俺もお前を売り払った後に何が起きようと知ったことではないしな」
こうして女衒と螳螂婦人は彼女の屋敷を後にし、王都ミリタントに向かった。
◇
ここはある名門貴族の別邸。
「なんと! これは驚いた! このような美しさが、まだこの世に存在したのか!」
螳螂婦人の妖艶な美しさに、買主は一瞬で虜になってしまう。
「希少種・蟲獣螳螂族だ。この女を含め、個体はほとんど確認されていないはずだ」
ヴィーネウスのそっけない説明にも貴族はかぶりつくような表情で聞き入っている。
すると、螳螂婦人はヴィーネウスに見せたような高慢な態度とは正反対に、貴族の足元に正座をすると、三つ指をついてみせる。
「私はマンティスと申します。ご主人さま、どうぞよしなに」
「気にいった! 気にいったぞヴィーネウスとやら! 貴様は評判以上の男だ!」
「お褒めの言葉はいいから、早いところ金額を決めてくれ」
「金貨三百枚、いや、ここは五百枚と奮発させてもらおう。この女にはそれだけの価値は十分にある!」
貴族は召使に金貨袋を数個持ってこさせると、ヴィーネウスの前に積み上げた。
「あんたのプライドを信用しているからな。中身の検分はしないぞ」
「わしとてたかが金貨一枚二枚をちょろまかすようなことはせぬよ。さあ、それを持ってさっさと帰ってくれ!」
ヴィーネウスは貴族に追い出されるような形で屋敷を後にした。
「さて、マンティスとやら、わしの性癖は聞いておるな」
「はい、ご主人さま」
三つ指から顔を上げたマンティスは、唇を舌で舐めて見せる。
その妖しげな表情に被虐心を刺激されるも、まだまだと我慢するかのように首を左右に振りながら、貴族は懐から何やら取り出し、マンティスの首に巻きつけた。
「これは隷属の首輪といってな、万一お前がわしに敵対心を持った瞬間に、今は青く輝く中央の石が赤色に染まり、お前の首を刎ねてしまう魔道具だ。理解したら心してわしを愛せよ」
「かしこまりました、ご主人さま」
「それでは早速始めるとしよう」
◇
九十の日々が過ぎた。
草萌える季節から灼熱の季節を経て、今は来る凍土の季節に備え、皆が滋養を蓄える豊穣の季節。
そんなある日、その事件は起きた。
王都の経済を牛耳っていた経済担当大臣である名門貴族が、忽然とその姿を消してしまったのだ。
残されたのは、彼の愛妾が首に巻いていたチョーカーのみ。
まず疑われたのは、ともに消えた愛妾だったが、容疑はすぐに晴れた。
なぜなら、チョーカーの石は青いままだったから。
「愛妾との愚かな失踪」
これが王家の下した判断となる。
やがてこの事件は解決されることもなく、主を失った名門貴族家は王家によって解体され、経済担当大臣には別の者が任に就いた。
その結果、クリーグにおける貴族派閥のバランスが大きく変わることになる。
◇
ここはそれなりに高級な酒場「連射花亭」
ヴィーネウスの前には、大きな瞳とほっそりとした顎が印象的な女性が腰かけている。
「一杯やるか?」
「やめておこう、お腹のややこにさわるでの」
自らの腹をさすりながら母親の表情でマンティスは続ける。
「最初の滋養となって下さった、あのお方のためにも、このこは大切に育てるつもりじゃ」
「馬車の準備ができたわ」
ウルフェからの声にマンティスはゆっくりと席を立つ。
「それではヴィーネウス、世話になったの」
「ああ、達者でな」
彼に背を向けたマンティスに、ヴィーネウスはらしくもなく、たまらず引っかかっていた疑問を投げかけてしまう。
「なあマンティス、お前はあの貴族を本当に愛していたのか?」
ヴィーネウスからの問いかけに振り返るマンティス。
その表情は慈愛に満ちている。
「当たり前じゃヴィーネウス。わらわはあのお方を愛しておったよ。骨の髄まで、血の一滴までな」