堕ちた歌姫
ヴィーネウスはクリーグ王国王都「ミリタント」の南に位置する、森の一画に建てられた屋敷を訪れていた。
「俺を呼びつけるとは偉くなったものだな」
「それならあなたの隠れ家のベッドに、こちらからお邪魔した方がよかったかしら?」
「ふん」
勧められたソファにゆったりと身を沈めると、ヴィーネウスはこの屋敷の主、いや、経営者と言った方が正しいか、の女性に向かって不愉快そうに鼻を鳴らして見せる。
「で、何の用だ?」
「注文よ」
「お前がか?」
まさかの依頼にヴィーネウスは女主人の顔を訝しげに見つめなおした。
「あら、女性が注文するのはおかしいかしら?」
「まあ、好みは色々あるだろうがな。但し、俺はメス専門だぞ」
「メスだなんて、照れなくてもいいわよ」
「ふん」
ヴィーネウスに向かって、からかうような笑みを浮かべる女性を前にして、彼は再び鼻を鳴らしてしまう。
どうもこの女が相手だと、いまいちペースがつかめない。
やれやれと呟きながら、ヴィーネウスは注文内容を確認すべく、女主人に向けてソファーから身を乗り出した。
◇
大陸中央から北東に向かって流れるレイネ川では、様々な水生種の人々や動植物、魔物などが生を営んでいる。
それはいつの頃からだろうか。
どこからか迷いこんできた魔物が川に住みついたのは。
魔物と言っても、特に誰彼を襲う訳でもない。
ただ、気まぐれに川の岩礁に腰かけ、歌を奏でるだけ。
その優しく儚げな歌声は、水生種同士のこざかしいなわばり争いを収めた。
その静かな温かい歌声は、興奮のあまりに獲物でもない相手を殺してしまいそうになっている連中に我を取り戻させた。
稀に見せるその美しい姿は、見る者を男女問わず魅了し、心を落ちつかせた。
いつしかレイネ川の住民たちは、この魔物に畏敬の念を込め、こう呼ぶようになった。
「歌姫セイレーン」と。
しかし、刻印の日以降、レイネ川を取り巻く環境は一変してしまう。
クリーグ王国をゆったりとした流れでつなぐレイネ川は、輸送の重要な経路となった。
中央渓谷の森林から材木や石材が切り出され、川の流れに沿って王都ミリタントの港まで、資材となるべく運ばれていく。
途中の流域では、税金に代わる農作物や各種特産物も、その目録とともに船に積み込まれていく。
北東の河口付近からも、様々な海の恵みがゆったりとした川の流れをさかのぼり、王都に届けられる。
こうして頻繁に行き交う船団にとって、歌姫が奏でる歌は、船員を惑わし、船の操作を誤らせ、積荷を無に帰してしまうものとなってしまったのだ。
船を失い、積荷を失い、財を失い、家族の命を失った人々は、憎しみをこめて歌の主をこう呼んだ。
「魔女セイレーン」と。
彼女が姿を現すたびに歓迎してくれた水生の種族は既に押し黙り、今では彼女が姿を現すたびに討伐隊が派遣されるようになってしまった。
いつしかレイネ川から歌は失われ、船団の喧騒だけが残った。
なわばり争いを止める者は既になく、荒くれどもは気に障る相手を簡単に殺してしまう。
美しかったレイネ川の青い川面は、いつの間にか、どす茶色に濁ってしまっていた。
◇
ヴィーネウスは一人用の小舟を漕ぎながら、感覚を研ぎ澄ましていく。
セイレーンは一度も討伐隊に捕えられることはなかった。
捕まらない理由は発注者の女主人から聞いている。
傍若無人に行き交う船団も、夕暮れとともに近くの簡素な港に寄港し、徐々に川面からその姿を減らしていく。
沈みゆく陽が染めた橙色の川面が徐々に紫に染まっていく中で、ヴィーネウスの感覚は、小さくか細い声をその耳に捉えた。
「ここか」
ヴィーネウスは川面の中央に立つ岩礁の一つに小舟を止め、岩に腰かけると、女主人が彼に教えた術式をゆっくりと唱えていく。
すると、術式に合わせるかのように、川面がゆっくりと持ちあがり、まるで川の水が意思を持ったかのように一つの形を模っていく。
それはいつの間にか透き通った水から徐々に全裸の女性の姿となり、月にうっすらと輝く青い髪を全身にたなびかせながら、ヴィーネウスの前に現われた。
「あなたはだあれ?」
青く輝く可愛らしい瞳が、小首をかしげながらヴィーネウスに問う。
「お前を買いに来たんだ」
「私を買うの?」
青髪の女性は、ヴィーネウスの言葉を繰り返すと、申し訳ないような、悲しいような表情で彼を再び見つめた。
「ごめんなさい、私に売るほどの価値はないわ」
女性は続ける。
「私は歌うことしかできないの。でも、私が歌うと皆が不幸になってしまうの」
そう呟きながら、いつの間にか女性は青い瞳からぽろぽろと青い涙を流し始める。
「私はいらない存在なの」
そこまで呟くと、女性は再び川面に溶けるように姿を消してしまった。